光仁天皇から桓武天皇への譲位と、さらなる戦乱の時代
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「宝亀の乱」の記事における「光仁天皇から桓武天皇への譲位と、さらなる戦乱の時代」の解説
しかし、結局のところこれらの軍事活動はみるべき成果をもたらさなかった。また、当初反乱の首謀者であったはずの呰麻呂も追捕できなかったばかりか、彼の名はその後の記紀にも現れない。征東使が翌年に帰京するまでの間に、宝亀から天応への改元が行われ、光仁天皇から山部親王すなわち桓武天皇への譲位がなされたが、新天皇である桓武は、呰麻呂ではなく、「賊中の首にして、一を以て千に当たる」として「伊佐西古・諸絞・八十嶋・乙代」の名を敵の首魁として挙げている。しかしながら征東使の軍勢は、これら敵の指導者の一人として討ち果たせなかったばかりか、「賊」4,000人に対して、70人余りの首を持ち帰るに留まった。このため、首を持ち帰ったことを戦果として報告したいと入京を申請した藤原小黒麻呂に対し、桓武天皇は十分な戦果を挙げえないまま軍を解散させたとして叱責し、その入京を認めなかった。そして、副使である内蔵全成または多犬養を先に入京させて、軍中の委細を報告させるよう命じたのである。それから2か月余りを経た8月から9月にかけて論功行賞が行われ、征東大使の藤原小黒麻呂が正四位下から正三位に昇進し、紀古佐美、百済王俊哲、内蔵全成、多犬養、多治比宇美、百済王英孫、安倍猨嶋墨縄、入間広成ら10人も征夷の労によって叙位されたが、ひとり大伴益立が従四位下の剥奪処分に至ったのは前述のとおりである。征夷が遅れた原因を大伴益立一人の罪に帰したものと考えられる。 一方、先に挙げられた「伊佐西古・諸絞・八十嶋・乙代」はいずれも有力な蝦夷の族長であり、中でも伊佐西古は宝亀9年(778年)、呰麻呂とともに外従五位下を授かった吉弥侯部伊佐西古その人である。このことはすなわち、呰麻呂が乱を起こすとともに従来政府側に協力してきた蝦夷たちまでもが離反したことを示す。これまで政府側に帰属してきた蝦夷は、「俘軍」として政府側の武力として活動することもあったが、桓武天皇の治世の下行われた3回に渡る征夷では、俘軍の政府軍への参加はみられない。ここに至り征夷は律令国家と蝦夷の全面対決の局面に突入し、坂上田村麻呂がアテルイらの軍勢に勝利して胆沢地方を平定するまで、大規模な戦乱の時代が続くこととなる。一定の鎮定がみられたとして行われた天応元年の論功行賞であるが、これは形式的な終結にすぎず、根本的な解決には至っていなかったのである。
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