光仁天皇から桓武天皇への譲位と、さらなる戦乱の時代とは? わかりやすく解説

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光仁天皇から桓武天皇への譲位と、さらなる戦乱の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/09 14:47 UTC 版)

宝亀の乱」の記事における「光仁天皇から桓武天皇への譲位と、さらなる戦乱の時代」の解説

しかし、結局のところこれらの軍事活動みるべき成果をもたらさなかった。また、当初反乱首謀者であったはずの呰麻呂追捕できなかったばかりか、彼の名はその後記紀にも現れない。征東使翌年帰京するまでの間に、宝亀から天応への改元が行われ、光仁天皇から山部親王すなわち桓武天皇への譲位なされたが、新天皇である桓武は、呰麻呂ではなく、「賊中の首にして、一を以て千に当たる」として「伊佐西古・諸絞・八十嶋・乙代」の名を敵の首魁として挙げている。しかしながら征東使軍勢は、これら敵の指導者一人として討ち果たせかったばかりか、「賊」4,000に対して70余りの首を持ち帰るに留まった。このため、首を持ち帰ったことを戦果として報告したい入京申請した藤原小黒麻呂対し桓武天皇十分な戦果挙げえないまま軍を解散させたとして叱責し、その入京認めなかった。そして、副使である内蔵全成または多犬養先に入京させて、軍中委細報告させるよう命じたのである。それから2か月余り経た8月から9月にかけて論功行賞が行われ、征東大使藤原小黒麻呂正四位下から正三位昇進し紀古佐美百済王俊哲内蔵全成多犬養多治比宇美百済王英孫安倍猨嶋墨縄入間広成10人も征夷の労によって叙位されたが、ひとり大伴益立従四位下の剥奪処分至ったのは前述のとおりである。征夷遅れた原因大伴益立一人の罪に帰したものと考えられる一方先に挙げられた「伊佐西古・諸絞・八十嶋・乙代」はいずれ有力な蝦夷族長であり、中でも伊佐西古は宝亀9年778年)、呰麻呂とともに外従五位下授かった吉弥侯部伊佐西古その人である。このことはすなわち、呰麻呂が乱を起こすとともに従来政府側に協力してきた蝦夷たちまでもが離反したことを示す。これまで政府側に帰属してきた蝦夷は、「俘軍」として政府側の武力として活動することもあったが、桓武天皇治世下行われた3回に渡る征夷では、俘軍の政府軍への参加みられない。ここに至り征夷律令国家蝦夷全面対決局面突入し坂上田村麻呂アテルイらの軍勢勝利して胆沢地方平定するまで、大規模な戦乱時代が続くこととなる。一定の鎮定がみられたとして行われた天応元年論功行賞であるが、これは形式的な終結にすぎず、根本的な解決には至っていなかったのである

※この「光仁天皇から桓武天皇への譲位と、さらなる戦乱の時代」の解説は、「宝亀の乱」の解説の一部です。
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