桓武平氏鹿島氏流 立原氏とは? わかりやすく解説

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桓武平氏鹿島氏流 立原氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/13 06:32 UTC 版)

立原氏」の記事における「桓武平氏鹿島氏流 立原氏」の解説

常陸国鹿島郡立原邑に立原氏がある。代々立原城主本姓桓武平氏家系常陸平氏大掾氏一門鹿島氏庶流といい、鹿島成幹の子立原五郎久幹を祖とする。代々常陸守護職 佐竹氏家臣あるいは常陸守護代江戸氏家臣となる。以下に鹿島氏立原氏初代から7代までの系図を示す。 大掾系図鹿島成幹 = ◎立原五郎久幹 ―― 五郎次郎盛幹 ― 小五郎久幹 ―― 小五郎兼幹 ―― 重幹 ―― 小兵太武幹 ―― 平六詮幹… 子孫在別 戦国期佐竹氏では、藤原氏流れをくむ関東管領 上杉氏から常陸源氏流れをくむ佐竹氏義人婿養子したことで、上杉養子迎えた佐竹宗家源氏の家系にこだわる有力一門 山入氏との間で百年に渡る内紛起きていたが、文明10年1478年1月義人の孫で宗家継いだ佐竹義治は、対山入方の備えとして三男久米義武久米城に入れたとされ、さらに義武補佐する四殿衆として石沢河内介瀬尾大膳内藤掃部らと並んで立原筑後らが同城に配されたという。しかし、1月28日未明山入方の大将 山入義知子 義房と弟 四郎次郎義顕を先陣として国安城を出て、義知自身下野国国人領主 那須資持200味方として出陣してきた際、山入方の大将 義知、その嫡男 義房こそ討ち取ったものの、宗家方も佐竹義武をはじめ小田野中務大輔義安討ち死にし、四殿衆も立原筑後瀬尾大膳討ち取られるなど敗北喫した記録されている。 しかし、その後立原氏家系断絶することはなく、佐竹宗家佐竹家中の衆に立原雅禾介、岩城菊田郡衆として、千葉之衆、立原大蔵介の名が見える他、佐竹東家 安島吉兵衛次の系図には、立原左衛門の女が、安島吉兵衛信忠嫁ぎ嫡男 安島伝次信詮を生む記録されている。また、子孫には佐竹氏秋田転封動向秋田藩となった者、佐竹氏重臣 小野岡氏の家臣となった者、常陸国留まり水戸藩士となったものがいる。 また、江戸氏家臣としては、『江戸氏旧臣録』に小幡村185貫を領する立原内記及び130貫を領する立原大学の名が見える。

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