大中臣諸魚とは? わかりやすく解説

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大中臣諸魚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/13 04:25 UTC 版)

 
大中臣 諸魚
時代 奈良時代 - 平安時代初期
生誕 天平15年(743年
死没 延暦16年2月21日797年3月23日
官位 正四位上参議
主君 光仁天皇桓武天皇
氏族 大中臣氏
父母 父:大中臣清麻呂、母:多治比子姉
兄弟 宿奈麻呂子老継麻呂諸魚、老人、今麻呂、藤原瀧麻呂室
大和姫子、大和小常子
智治麻呂、伯麻呂、百子
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大中臣 諸魚(おおなかとみ の もろな/もろうお)は、奈良時代から平安時代初期にかけての貴族右大臣大中臣清麻呂の四男。官位正四位上参議

経歴

光仁朝初頭の宝亀2年(771年皇后宮少進に任ぜられたのち、同年7月に右衛士大尉に転じ、宝亀6年(775年中衛将監を経て、宝亀7年(776年従五位下衛門員外佐に叙任される。その後も、宝亀8年(777年)衛門佐、宝亀10年(779年)中衛少将、宝亀11年(780年)右衛士佐と武官を務める一方、備前介下野守と地方官を兼ねている。

桓武朝に入ると、天応2年(782年少納言と文官に転じる。桓武朝では長岡京遷都を担当し、延暦3年(784年)6月に中納言藤原種継らと共に造長岡宮使に任ぜられ、同年11月には遷都に関連して松尾神社乙訓神社に派遣されている[1]

のち、延暦4年(785年右中弁左兵衛督と文武の要職を兼ねる一方で、延暦2年(783年)従五位上次いで正五位下、延暦4年(785年)正五位上、延暦6年(787年従四位下と急速に昇進し、延暦9年(790年参議に任ぜられ公卿に列した。その後も延暦13年(794年)従四位上次いで正四位下と累進して、延暦15年(796年)正四位上に至り、議政官として左大弁・近衛大将を兼ねた。

なお、延暦8年(789年)以降神祇伯も兼任し、延暦10年(791年神宮が放火されたことの謝罪[2]、延暦13年(794年蝦夷征討祈願を目的に[3]、いずれも伊勢大神宮に派遣されて幣帛を奉納している。また、延暦11年(792年)母・多治比子姉が卒したが、これに先だって、中臣氏で神祇伯を務める者は、天照大神に仕える神主であることから、代々近親者の服喪のために解官されることがない旨、諸魚は朝廷に申請していた。しかし、諸魚が葬儀に携わらないといっても、そのまま神事に供奉してはならないとして、法令通り官を辞して喪に服すよう勅令が出されている[4]

延暦16年(797年)2月21日卒去享年55。最終官位は参議左大弁近衛大将兼神祇伯正四位上。

人物

琴歌を好んだが、他には才能は無かった。服喪中であっても、興が乗ると慎むことを忘れるような所があった。財貨に貪欲で金儲けに勤しんだために、時の人々に蔑まれたという[5]

官歴

注釈がないものは六国史に基づく。

系譜

「中臣氏系図」(『群書類従』巻第62所収)による。

脚注

  1. ^ 『続日本紀』延暦3年11月20日条
  2. ^ 『続日本紀』延暦10年8月14日条
  3. ^ 『続日本紀』延暦13年正月17日条
  4. ^ 『日本後紀』延暦11年閏11月4日条
  5. ^ 日本後紀』延暦16年2月21日条
  6. ^ a b c d 公卿補任

参考文献




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