藤波光忠
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藤波 光忠(ふじなみ みつただ)は、江戸時代後期の日本の公卿、神宮祭主。
注釈
- ^ 『公卿補任』光格天皇文化四年条。父・寛忠が同日に辞しており、その後任となったことがわかる。
- ^ 『公卿補任』光格天皇文化六年条。同日、祖父季忠が後任の造宮使となった。
- ^ 『公卿補任』光格天皇文化九年条。母・中山砥豫子が死去したことによる。
- ^ 『公卿補任』光格天皇文化九年条。祖父季忠の、恵仁親王立太子の後の大殿祭勤仕の賞を譲られたことによる昇叙。
- ^ 『公卿補任』仁孝天皇文政二年条。豊岡治資の尻付に「同九二二任右兵衛佐」とあり、治資が文化9年2月2日(1812年3月14日)に任じられていること、また光格天皇文化九年条、光忠は神祇権大副のみ「如旧」であるから、従三位昇叙のときに辞したか。
- ^ 『公卿補任』仁孝天皇文政七年条。前日の18日に父・寛忠が神祇大副を辞したことによる。
- ^ 『公卿補任』仁孝天皇文政七年条。父・寛忠が薨去したことによる。
- ^ 『公卿補任』仁孝天皇弘化三年条。文政11年以降記述が見えないが、天保13年2月5日(1842年3月16日)に子・教忠が造宮使に補任されており、同日又はそれ以前に辞したか。
- ^ 『平成新修旧華族家系大成』下巻。天保7年8月4日(1836年9月14日)に没している。
出典
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