藤波家との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 01:26 UTC 版)
「河辺家 (大中臣氏)」の記事における「藤波家との関係」の解説
藤波・河辺関係系図藤波景忠 藤波徳忠 河辺忠長 河辺隆亮 河辺景英 藤波和忠 河辺長矩 藤波季忠 河辺長堯 藤波寛忠 河辺長祥 河辺都盛 藤波光忠 万里小路正房 義子 三室戸陳光 澤量行 藤波教忠 万里小路博房 河辺長量 河辺教長 河辺長福 河辺博長 実父・実子を優先した。太字が河辺家の人物。 詳しくは右の「藤波・河辺関係系図」を参照。 前述のように、藤波家の者が祭主に再任することに関して著しく反発した河辺家だったが、精長の次男長春が早くに死去し、その跡を継いだ精長三男の房長は嗣子に恵まれず、祭主藤波景忠の子を二人も養子に取った。その二人も早世し、大中臣一族のうちから春日社神主の中西時資の子千長を養子に取った。しかし彼も早くに亡くなり、景忠の孫にあたる長矩を千長の娘と娶せてからは、この長矩の系統が河辺家を継いでいく。血統で見れば、藤波家に移ったことになる。 長祥には子が無く、藤波寛忠の子で澤久量の養子となった澤量行、その子である長福が養子に入る。長福の跡は長祥の弟の都盛が継いだが、彼も嗣子なく、同じく寛忠の子で三室戸能光の養子となった三室戸陳光の、その子である長量、教長が相次いで養子に入った。教長が隠居すると、長量の妻であった英子が家督を継承し当主となる。英子の跡は、万里小路正房に嫁いだ寛忠の娘・義子の実の孫博長が継承する。ここで血統は万里小路家に移るが、女系を介すると藤波家にも至ることができる。
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