万里小路正房とは? わかりやすく解説

万里小路正房

読み方までのこうじ なおふさ

江戸後期公卿。建房の子。元の名は寿房。安政元年(1854)歿。

万里小路正房

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/30 13:51 UTC 版)

 
万里小路 正房
時代 江戸時代後期
生誕 享和2年12月1日1802年12月25日
死没 安政6年10月22日1859年11月16日
改名 寿房(初名)→正房
官位 従三位権大納言
主君 仁孝天皇孝明天皇
氏族 万里小路家
父母 父:万里小路建房、母:勧修寺経逸の娘
兄弟 正房、幸子、堀河康親室、睦子
藤波寛忠の娘
博房、素信、正秀
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万里小路 正房(までのこうじ なおふさ)は、江戸時代後期の公卿権大納言・万里小路建房の子。官位従三位・権大納言。万里小路家24代当主。

経歴

京都で誕生。初め寿房と名乗った。

文政3年(1820年)叙爵。弁官蔵人頭を歴任し、天保9年(1838年参議、天保12年(1841年)従三位に昇進し、また嘉永元年(1848年権中納言となる。

嘉永6年(1853年議奏となって以後、朝幕関係の朝廷に奔走する事となり、安政2年(1855年アメリカイギリスロシアとの和親条約の謄本を受理する。安政4年(1857年権大納言となり、翌年には公武合体を唱え、また条約勅許問題や将軍継嗣問題において朝幕間の調停に努めた。さらに武家伝奏となり、水戸藩への密勅降下にも関与するが、九条尚忠の独断専行に関与したとして権大納言を辞職する。同年、二条斉敬近衛忠房広橋光成と共に江戸に降り、江戸幕府14代将軍となった徳川家茂将軍宣下を行った。安政6年(1859年安政の大獄で処分の対象となるも、あらかじめ武家伝奏を辞職したために謹慎30日に減刑された。同年、薨去した。享年58。日記に「正房卿記」がある[1]

系譜

  • 父:万里小路建房
  • 母:勧修寺経逸
  • 妻:藤波寛忠の娘
  • 生母不明の子女
    • 八男:万里小路正秀(1858-1914) - 明治天皇の稚児として出仕し、13歳から10年間ロシア貴族のもとに留学したのち、式部官,主猟官などを歴任し、1885年に分家して男爵となり(1887)、晩年は大膳頭も務めた[2]。正秀はロシア人女性マリア・バユノフ[信頼性要検証]と結婚したが離婚し(日本では結婚申請が不許可となった)[3][4]野村靖の娘久子と再婚し長男・万里小路元秀(1891-1975)をもうけるも離婚(久子は本野一郎と再婚)。後妻との娘ソデは猪野毛利栄に嫁ぐ。元秀の妻・糸子は大川平八郎の姪[5]

脚注

  1. ^ 万里小路正房 までのこうじ-なおふさ日本人名大辞典
  2. ^ 万里小路正秀 までのこうじ-なおひで日本人名大辞典
  3. ^ 『華族誕生 名誉と体面の明治』浅見雅男、リブロポート、1994年
  4. ^ 『国際結婚第一号』小山騰、講談社 (1995/12), p209
  5. ^ 田中栄八郎『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]

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