藤波寛忠とは? わかりやすく解説

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藤波寛忠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/05 16:21 UTC 版)

 
藤波 寛忠
時代 江戸時代後期
生誕 宝暦9年1月25日1759年2月22日
死没 文政7年11月24日1825年1月12日
官位 正二位非参議
主君 後桜町天皇後桃園天皇光格天皇仁孝天皇
氏族 藤波家
父母 父:藤波和忠、母:家女房
養父:藤波季忠、養母:藤波伊子
兄弟 伊子、駿麿ほか
中山砥豫子(中山愛親の娘)
光忠、澤量行、三室戸陳光、歌橋、藤子、庸子、實ほか
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藤波 寛忠(ふじなみ ひろただ)は、江戸時代後期の日本公卿神宮祭主

生涯

神宮祭主藤波和忠の子として、宝暦9年(1759年)に生まれる。和忠にとって待望の男子ではあったものの、季忠を既に養子に取っていたため、季忠の養子となった。

明和4年(1767年)、9歳で叙爵される。明和8年12月9日1772年1月13日)、13歳で元服、昇殿を許される。安永7年(1778年)、養父より譲られて祭主となる。天明3年(1783年)、25歳で従三位となり、公卿に列せられた。寛政6年3月13日1794年4月12日)、大殿祭への毎度の勤仕の賞により、直衣を許された。

文政7年(1825年)、神祇大副を辞任したその6日後、66歳で薨去した。

官歴

系譜

脚注

注釈

  1. ^ 『公卿補任』光格天皇享和二年条。「三月廿三日喪父。」とあるが、実父和忠は明和2年(1766年)にすでに亡くなっており、養父季忠は文化10年(1813年)まで健在であるため、母の誤記だろう。
  2. ^ 養父・季忠が薨去したことによる。

出典

  1. ^ 霞会館 1996b, p. 251.
  2. ^ 霞会館 1996b, p. 699.
  3. ^ 霞会館 1996a, p. 260.
  4. ^ 霞会館 1996b, p. 658.

参考文献

  • 『公卿補任』第五篇(黒板勝美・国史大系編輯会『新訂増補国史大系』所収)吉川弘文館、1974年。
  • 霞会館 編『平成新修旧華族家系大成 上』吉川弘文館、1996a。 
  • 霞会館 編『平成新修旧華族家系大成 下』吉川弘文館、1996b。 
  • 中島正伍「大城の大上臈歌橋の墓(第一墓地)」祐天寺歴史文化館(境内散策)


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