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藤波季忠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/05 16:08 UTC 版)

 
藤波 季忠
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 元文4年1月26日1739年3月5日
死没 文化10年2月15日1813年3月17日
改名 久丸(幼名)
官位 正二位非参議
主君 桃園天皇後桜町天皇後桃園天皇光格天皇
氏族 冷泉家藤波家
父母 父:冷泉宗家、母:清閑寺熈定の娘
養父:藤波和忠、養母:牧野英成の娘
兄弟 為晴、為栄、藤波季忠
藤波伊子
実子:若江公義
養子:寛忠
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藤波 季忠(ふじなみ すえただ)は、江戸時代中期から後期にかけての日本公卿神宮祭主

生涯

下冷泉家12代当主冷泉宗家の次男として、元文4年(1739年)に生まれる。寛延4年9月25日1751年11月12日)、男児に恵まれなかった藤波和忠の養子となり[1]、同年中に叙爵。翌宝暦2年2月24日(1752年4月8日)に14歳で元服し、昇殿を許された。明和4年(1767年)、従三位となり、公卿に列せられた。

安永7年(1778年)、祭主職を藤波寛忠に譲った。伊子との間には実子義道がいたが、寛政11年(1799年)、菅原氏流地下家若江家の長公の養子となった[2]。養父和忠に大中臣氏二門の男児が生まれた以上、祭主職はその男児すなわち寛忠に継承された。季忠の祭主職就任は特例にして中継ぎであった[3]

天明7年12月2日1788年1月9日)、直衣を許される。享和2年3月23日1802年4月25日)、妻・伊子に先立たれる[4]文化10年(1813年)、75歳で薨去した。

官歴

系譜

脚注

注釈

  1. ^ 養父・藤波和忠が薨去したことによる。
  2. ^ 実父・冷泉宗家が薨去したことによる。
  3. ^ 第52回神宮式年遷宮のため。

出典

  1. ^ 『公卿補任』後桜町天皇明和四年条。尻付に「寛延四〔為宝暦元〕九廿五為和忠卿子。」とある。
  2. ^ 正宗敦夫 1968, p. 1270.
  3. ^ 平井誠二 2000, p. 198.
  4. ^ 『公卿補任』光格天皇享和二年条。寛忠の項に「三月廿三日喪父。」とあるが、寛忠の実父・和忠は明和2年(1766年)に既に亡くなっており、養父となった季忠自身は文化10年(1813年)まで健在であるため、母の誤記であろう。
  5. ^ 『公卿補任』後桜町天皇明和四年条。「同二五廿五服解(母)。」とあり、この日、母である牧野英成の娘が亡くなったことによる。

参考文献

  • 公卿補任』第四篇(黒板勝美・国史大系編輯会『新訂増補国史大系』所収)吉川弘文館、1974年。
  • 『公卿補任』第五篇(黒板勝美・国史大系編輯会『新訂増補国史大系』所収)吉川弘文館、1974年。
  • 正宗敦夫 編『地下家伝 中』自治日報社、1968年、809-1709頁。 
  • 平井誠二 著「近世における祭主職の継承」、國學院大學日本文化研究所 編『大中臣祭主藤波家の研究』続群書類従完成会、2000年。 


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