大中臣子老とは? わかりやすく解説

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大中臣子老

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/21 01:23 UTC 版)

 
大中臣子老
時代 奈良時代
生誕 不明
死没 延暦8年1月25日789年2月24日
官位 正四位下参議
主君 称徳天皇光仁天皇桓武天皇
氏族 中臣朝臣大中臣朝臣
父母 父:大中臣清麻呂
兄弟 宿奈麻呂子老継麻呂諸魚、老人、今麻呂、藤原瀧麻呂室
安遊麻呂、鯛執、武盧、梁麻呂、弟守
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大中臣 子老(おおなかとみ の こおゆ)は、奈良時代公卿氏姓中臣朝臣のち大中臣朝臣。右大臣大中臣清麻呂の次男。官位正四位下参議

経歴

称徳朝天平神護3年(767年従五位下叙爵され、翌神護景雲2年(768年中務少輔に任ぜられる。のち美作介伊勢介と地方官を務める一方、神護景雲3年(769年)には中臣朝臣姓から大中臣朝臣姓に改姓している。

宝亀3年(772年神祇大副として京官に復帰すると、宝亀4年(773年)従五位上、宝亀5年(774年正五位下、宝亀7年(776年)正五位上、宝亀8年(777年従四位下神祇伯と、光仁朝では父の右大臣清麻呂の威光もあり、神祇官の官人を務めながら急速に昇進した。

天応元年(781年桓武天皇即位後まもなく父の清麻呂が右大臣を辞任して政界を引退すると、代わって子老が従四位上・参議に叙任され公卿に列する。桓武朝では、議政官として長く神祇伯を務める傍らで式部大輔右京大夫宮内卿右大弁兵部卿等を兼任、またこの間の延暦3年(784年)には、中納言藤原小黒麻呂藤原種継らと共に、遷都のため山城国長岡の地を視察している[1]。延暦5年(786年正四位下に昇叙。延暦8年(789年)1月25日卒去。最終官位は参議宮内卿正四位下兼神祇伯。

官歴

続日本紀』による。

系譜

「中臣氏系図」(『群書類従』巻62所収)による。

  • 父:大中臣清麻呂
  • 母:不詳
  • 生母不詳の子女
    • 男子:大中臣安遊麻呂
    • 男子:大中臣鯛執
    • 男子:大中臣武盧
    • 男子:大中臣梁麻呂
    • 男子:大中臣弟守

脚注

  1. ^ 『続日本紀』延暦3年5月16日条

参考文献




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