大中臣淵魚とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 大中臣淵魚の意味・解説 

大中臣淵魚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/11 05:02 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
 
大中臣淵魚
時代 平安時代初期
生誕 宝亀5年(774年
死没 嘉祥3年3月3日850年4月18日
官位 従四位上神祇伯
主君 嵯峨天皇淳和天皇仁明天皇
氏族 大中臣氏
父母 父:大中臣継麻呂
兄弟 貞麻呂、広河、淵魚
美濃雄、良人安子
テンプレートを表示

大中臣 淵魚(おおなかとみ の ふちな)は、平安時代初期の貴族神職但馬守大中臣継麻呂の三男。官位従四位上神祇伯

経歴

大同4年12月(810年1月)従五位下叙爵弘仁6年(815年神祇大副に任ぜられる。のち、弘仁13年(822年)従五位上、弘仁14年(823年正五位下天長5年(827年)正五位上、天長7年(829年従四位下・神祇伯と嵯峨朝末から淳和朝にかけて順調に昇進した。

仁明朝の天長10年(833年)従四位上・摂津守に叙任。長らく神祇伯を務め、天長10年(833年賀茂大神奉幣[1]承和9年(842年)には伊勢・八幡祟りによる日照りを鎮めるために祈祷を行っている[2]。また、弘仁6年(815年)から承和9年(842年)にかけて28年に亘って伊勢神宮祭主も務めた。承和10年(843年)上表して致仕し、官界を退いた。

嘉祥3年(850年)3月3日卒去。享年77。最終官位は散位従四位上。

人物

慎み深い一方、きめ細かく行き届いた性格で、神事を良く理解し熟達していた。病のために自邸で伏せるようになると、人や物に交わることなく一人奥深く籠もって静かに過ごし、病人のための薬や食事を摂りつつ、死期を待っていたという[3]

官歴

注記のないものは『六国史』による。

系譜

「中臣氏系図」(『群書類従』巻第62所収)による。

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 続日本後紀』天長10年6月8日条
  2. ^ 『続日本後紀』承和9年7月19日条
  3. ^ 『続日本後紀』嘉祥3年3月3日条
  4. ^ a b 「中臣氏系図」『群書類従』巻第62所収

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「大中臣淵魚」の関連用語

大中臣淵魚のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



大中臣淵魚のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの大中臣淵魚 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS