ロシアの侵出とロシア領時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 04:15 UTC 版)
「真岡郡」の記事における「ロシアの侵出とロシア領時代」の解説
1867年の樺太全土を日露雑居地とする樺太雑居条約の締結以降、樺太放棄までに西トンナイ(真岡)にロシア人が砦を築き侵出。
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ロシアの侵出とロシア領時代
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「栄浜郡」の記事における「ロシアの侵出とロシア領時代」の解説
安政2年(1855年)日露和親条約で樺太国境が未確定のまま棚上げ先送りとされた後、安政6(1859年)には、少数のロシア兵が東海岸のマーヌイ(白縫村真縫)にマヌエ哨所を建設(ロシア軍艦対馬占領事件や帝国主義・南下政策も参照)。これが栄浜郡域における初の侵出である。慶応2年(1866年)には、ナイプチ(栄浜村内淵)にも小屋を建築される。1867年樺太全土を日露雑居地とする樺太雑居条約の締結後、明治2年末に、ナイブチ川上流のタコエ(多古恵、落合町大谷)にロシア帝国政府が試験的に派遣した農民21家族100人余が移住した。周辺での漁業をめぐり紛争があった。1875年の樺太千島交換条約締結後のロシア領時代、1890年(明治23年)、流刑地・樺太の調査をおこない、後に報告記「サハリン島」を執筆した作家のアントン・チェーホフが、上陸した大泊から落合町の大谷や落合、栄浜村内淵付近まで足を伸ばしている。
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