ロシアの全権大使スパファリ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 19:42 UTC 版)
「清露国境紛争」の記事における「ロシアの全権大使スパファリ」の解説
ロシアのツァーリ政府は、1674年にギリシア人ニコライ・ガヴリロヴィチ・スパファリ(ニコラエ・ミレスク)を全権大使としてモスクワから派遣した。同時にアルバジン要塞を正式な軍事拠点とした。スパファリは自由な交易への要望書を持ってきていたが、ガンチムール他の引き渡しについては「何も聞いていない、勅書が読めなかった」と言い張った。モスクワ側は、兎にも角にも通商外交関係を結ぶことが目的で、アムール川流域のトラブルは無視することにしたのである。スパファリの話を聞いて、清の官吏、馬喇らは、ガンチムールの引き渡し要求を知らないというのはロシア側の嘘だと気づいた。とはいえ、清の政府は、ロシアのような大国を朝貢国として扱えば、三藩対策上からも有利と見做した。スパファリは清側から丁重にもてなされ、恩賜の品を渡されたが、一方、ロシア側が要求していた交易や、モスクワへの使者派遣願いは取り上げられなかった。1677年にスパファリは北京から帰国の途についた。ガンチムール引き渡しが行われない限り、清はロシアとの交流を行わないことにしたのである。ロシア側ではツァーリ・アレクセイの死去や病弱なフョードル3世(在位1678年-1682年)の即位と死去、前ツァーリの2人の妻の親族どうしの争いといった事情もあり、露清の外交関係はいったん途絶える。
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