ロシアの交易拠点
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 08:15 UTC 版)
「ニジニ・ノヴゴロド」の記事における「ロシアの交易拠点」の解説
18世紀には商都としてニジニ・ノヴゴロドは繁栄し、ロシア最大の豪商・大地主・産業家であったストロガノフ家がこの地に拠点を置いた。ストロガノフ家は多くの聖堂などを寄進しており、19世紀から20世紀の変わり目には、ストロガノフ様式という独特の建築やイコン絵画がここで生まれている。 19世紀前半にはロシア最大の見本市であるマカリエフの定期市が、同州マカリエヴォのジェルトヴォツキー・マカリエフ修道院からニジニ・ノヴゴロドに移転し、毎年7月に延べ数百万の商人や観客がロシアだけでなくイランや中央アジアからもやってくる賑わいを呈した。こうしてヴォルガ川畔の街はロシア帝国の商業の中心地となり、さらに工業も急激な勢いで発展した。その中でも最大の工場はソルモヴォ製鉄所で、ニジニ・ノヴゴロドの山手のモスクワ駅(ru)とは専用鉄道で結ばれていた。ニジニ・ノヴゴロドの下町側には私鉄モスクワ=カザン鉄道の駅があった。その他の産業も緩やかに成長し20世紀にはロシア第一の産業都市であった。 1896年には全ロシア産業芸術博覧会(汎ロシア博覧会)が開催され、物理学者アレクサンドル・ポポフの世界最初の無線受信機、ウラジーミル・シューホフの世界初の双曲面構造の鉄塔およびラチスシェル構造のメインパビリオンが披露された。 この時代、この街に生まれた社会主義リアリズムの作家マクシム・ゴーリキー(1868年生まれ、本名アレクセイ・マクシーモヴィチ・ペシコフ)は、ニジニ・ノヴゴロドの労働者達やヴォルガ川沿岸の農民達の苦難に満ちた生活を描いた。彼の生家は現存しており、不動産を取得した彼の祖父にちなんでカシリンの家と呼ばれている。
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