ロシアの公爵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 03:49 UTC 版)
詳細は「クニャージ」を参照 帝政ロシアの貴族(ロシア語版)は17世紀以前のボヤール(モスクワ大公国以前からの諸侯)に由来するものと、18世紀以降ロシア帝国初代皇帝ピョートル1世が制定した官等表に基づいて貴族になった官僚貴族のドヴォリャンストヴォに分けられるが、ボヤールも官僚としての勤務で官等表に組み込まれ、ドヴォリャンストヴォ化したので両者は同質化していった。 ロシア貴族の称号は当初は公爵(クニャージ、Князь、knyaz)しかなかったが、ピョートル1世はドイツと同じ伯爵位(グラフ、граф, graf)、イギリスと同じ男爵位(バロン、барон、baron)を加えて爵位制度を作った。また皇族の称号として大公(ヴェリーキー・クニャージ、Великий князь)があった。 帝政ロシア時代の公爵家にはドルゴルーコフ家、ゴリツィン家(ロシア語版)、ロプーヒン=デミドフ家、カンテミール家、ポチョムキン家(ロシア語版)、オボレンスキー家(ロシア語版)、ゴルチャコフ家(ロシア語版)、ロバノフ=ロストフスキー家(ロシア語版)、ユスポフ家(ロシア語版)、ヴォルコンスキー家(ロシア語版)などがあった。 帝政ロシアの貴族の特徴はロマノフ朝皇帝権力に強く従属し、勤務義務を負っていることだった。その原因の一つとしてロシア貴族は伝統的に均分相続法によって所領が細分化しやすかったため、官僚として働いて生活費を稼ぐ必要のある者が多かったことがあげられる。またロマノフ皇帝は絶対権力者であるので、その近くで勤務することは自分の権力と財産を拡大させるチャンスであった。 しかし18世紀を通じて貴族の勤務義務は徐々に緩和されていき、1762年のピョートル3世の布告で廃止された。貴族の領地と農奴を私有財産として保障した1785年のエカチェリーナ2世の特権認可状は貴族を身分に再編しようというものだったが、実際にロシア貴族に身分意識が生まれたのは19世紀以降だった。 ロシア貴族が住む屋敷はウサージバと呼ばれた。 ロシア革命により貴族身分は廃止され、ソビエト連邦時代を通じて貴族家系の出身者は迫害・抑圧されたが、ソビエト連邦の崩壊後には貴族の子孫たちが自分の先祖の再評価の出版を相次いで行っている。
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