ロシアの侵出とは? わかりやすく解説

ロシアの侵出

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 14:20 UTC 版)

久春内郡」の記事における「ロシアの侵出」の解説

安政2年1855年日露和親条約国境未確定のまま棚上げ先送りとなった後、安政4年1857年7月、ロタノスケ率いロシア軍が、上陸地のナヨロ泊居郡名寄村)からクシニンナイ(久春内村)に移動し、クスナイスキー哨所(砦)を建設する事件発生。このときは日本警護固く8月1日撤退している。これが久春内郡域における初の侵出である。その後文久3年1863年)のアイヌ身柄強奪事件発生当時には、クシュンナイ(久春内村)に滞在するロシア人がいた。慶応元年1865年ロシア軍艦が大砲二門を久春内まで運び強引に揚陸哨所築いている(ロシア軍艦対馬占領事件帝国主義南下政策参照)。慶応2年1866年2月23日箱館奉行幕吏水上太夫氏ら8名が犬ぞり通りかかると、前年築れたイリンスキー哨所ロシア兵から進路妨害受けた上、哨所内に拘束される久春内幕史拘束事件発生。その翌年1867年樺太雑居条約締結樺太全土日露雑居地となり、クシュンナイ樺太放棄までにロシア人侵出した。

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ロシアの侵出

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 23:26 UTC 版)

富内郡」の記事における「ロシアの侵出」の解説

1867年樺太全土日露雑居地とする樺太雑居条約締結以降樺太放棄までに東トンナイロシア人侵出。オチョボカ(落帆)において、石炭採掘権をめぐる紛争があった。

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ロシアの侵出

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 05:49 UTC 版)

鵜城郡」の記事における「ロシアの侵出」の解説

安政2年1855年日露和親条約国境未確定のまま先送りとされた後、文久3年1863年アイヌ身柄強奪事件発生ロシア軍艦対馬占領事件帝国主義南下政策参照)。1867年締結樺太全土日露雑居地とする樺太雑居条約を受け、樺太放棄までにウショロにロシア人が砦を築き侵出

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