ロシアの侵出
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安政2年(1855年)日露和親条約で国境未確定のまま棚上げ先送りとなった後、安政4年(1857年)7月、ロタノスケ率いるロシア軍が、上陸地のナヨロ(泊居郡名寄村)からクシニンナイ(久春内村)に移動し、クスナイスキー哨所(砦)を建設する事件が発生。このときは日本の警護が固く8月1日撤退している。これが久春内郡域における初の侵出である。その後、文久3年(1863年)のアイヌ身柄強奪事件発生当時には、クシュンナイ(久春内村)に滞在するロシア人がいた。慶応元年(1865年)ロシア軍艦が大砲二門を久春内まで運び、強引に揚陸し哨所を築いている(ロシア軍艦対馬占領事件や帝国主義・南下政策も参照)。慶応2年(1866年)2月23日、箱館奉行の幕吏・水上重太夫氏ら8名が犬ぞりで通りかかると、前年築れたイリンスキー哨所のロシア兵から進路妨害を受けた上、哨所内に拘束される久春内幕史拘束事件も発生。その翌年の1867年樺太雑居条約の締結で樺太全土が日露雑居地となり、クシュンナイも樺太放棄までにロシア人が侵出した。
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ロシアの侵出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 23:26 UTC 版)
1867年、樺太全土を日露雑居地とする樺太雑居条約の締結。以降、樺太放棄までに東トンナイにロシア人が侵出。オチョボカ(落帆)において、石炭採掘権をめぐる紛争があった。
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ロシアの侵出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 05:49 UTC 版)
安政2年(1855年)日露和親条約で国境未確定のまま先送りとされた後、文久3年(1863年)アイヌ身柄強奪事件が発生(ロシア軍艦対馬占領事件や帝国主義・南下政策も参照)。1867年締結の樺太全土を日露雑居地とする樺太雑居条約を受け、樺太放棄までにウショロにロシア人が砦を築き侵出。
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