落帆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 04:19 UTC 版)
落帆(オチホ)は樺太東海岸、落帆川の河口近くの地名。もとはアイヌ語のオチョポッカ=オチョポㇹカ(Ocopohka)。「魚がいるところ」が語源であると言われる。 江戸時代には、北蝦夷地(樺太)御直場所差配人元締役・松川弁之助が会所(運上屋)を置き、漁場を開設していた。 日露戦争後、山辺安之助が率いる樺太アイヌの集落と、漁業、林業に携わる和人の集落が設けられた。また、沿岸の漁場も分かれていた。山辺が創設したアイヌのための学校はその後、和人の小学校と統合される。1945年(昭和20年)、日ソ中立条約を破棄したソ連軍の樺太侵攻後、1948年(昭和23年)に樺太アイヌの大半はソ連によって北海道以南に追放され、離散を余儀なくされた。 アイヌ語研究者・金田一京助が樺太でのアイヌ語初調査の際、滞在したことで知られる。そこでの経験をつづった随筆「心の小道」は非常に有名で国語の教科書に何度も掲載された。 日本統治時代、1923年まで行政的には落帆村であったが、富内村と合併し、富内村の一部となった。 落帆周辺は、現在はサハリン州コルサコフ市の管轄でレスノエ村(Lesnoe)と呼ばれている。
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