樺太直捌場所の分立
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安政年間(1854年~1860年)以降、西浦(西海岸)はノタサンより奥地が幕府直捌となる。安政3年(1856年)箱館奉行は鳥井権之助を北蝦夷地差配人に任命。同年、総勢18人の調査隊は、上陸したマアヌイ(栄浜郡白縫村真縫)からマアヌイ河沿いに西海岸のクシュンナイに達し、そこから北上。6月27日にライチシカ湖を探査、6月30日クシュナイに戻りさらに南下し、7月21日シラヌシに到着、8月4日宗谷、9月8日箱館着(敦賀屋文書)。安政4年西海岸のクシュンナイ、ウシュロなどでも予想を上回る豊漁であったという。安政4年(1857年)クシユンナイ等で多くの土方、木挽き、大工、鍛冶、番人、漁夫などが越冬した。しかし厳しい寒さによる脚気や栄養失調で越冬者45人中24人が死亡する悲劇となった。 石狩御直場所 安政5年(1858年)クシュンナイ周辺が箱館奉行石狩役所の直捌場所となり、箱館奉行調役荒井金助、並城六郎をクシュンナイに派遣。幕府の官船「豊平丸」と「若生丸」で人材や物資を輸送、「石狩御直場所」の標木を建て官舎や倉庫なども建設し、久春内やナヨロ(泊居郡名寄村)に漁場を開設。その後の物資の輸送は、幕府の官船「安寧丸」を借り受けた。漁場の状況については北海道におけるニシン漁史も参照されたい。 ※漁場の経営は後に栖原家が取捌を引継ぐこととなった。 幕末の状況について、「北海道歴検図」のカラフトの部分の絵図と松浦武四郎の「北蝦夷山川地理取調図」等では、会所(運上屋)・役宅について、権之助の義兄松川弁之助が西浦のクシュンナイ(久春内村)に取締所を建てた。クシュンナイにはオランダ式のストーブ4器を配置。 幕末当時の宗教施設や漁場については下記のとおり。 ○西浦の神社社 三浜村・・・ライチシカ(来知志)石清水八幡八 ○西浦漁場(南方より順次記載)慶応3年12月 栖原家十代寧幹時代の樺太漁場 久春内村・・・クシュナイ(久春内村)、コモシララヲロ(小茂白) 三浜村・・・ルウクシナイ(留久志) ※クシュナイに番屋(漁番屋)が存在した。
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樺太直捌場所の分立
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安政年間(1854年~1860年)以降、東岸は中知床岬以北のオホーツク海側が幕府直捌となる。安政3年(1856年)箱館奉行、鳥井権之助を北蝦夷地差配人に任命。同年4月、総勢18人の調査隊は、宗谷を経て樺太の東海岸トンナイチャ(富内)、オチョホッカ(富内村落帆)を調査(敦賀屋文書)。安政4年7月、大庄屋松川弁之助が北蝦夷地(樺太)御直場所差配人元締役となり、割当てられた場所は南のシレトコ岬(長浜郡知床村)から、本拠地ヲチョボカ(落帆村落帆)より北のシマオコタン(落帆村島古丹)までであった。弁之助は、アイヌへの贈り物の古陣羽織なども用意し、上野高崎藩領越後国蒲原郡一ノ木戸村(現・三条市)の小林森之助を北蝦夷地東浦(カラフト東海岸)オチョポカ(落帆)に送り会所(運上屋)を建て、この年オボチョッカのみで鱒マス1,000石の漁獲を上げた。さらにオチョボカやロレイ(栄浜郡栄浜村魯礼)など東西13か所で漁場を開設。このとき、中知床岬を周り東浦への航路を開拓、幕府から賞される。この年、土方、木挽き、大工、鍛冶、番人、漁夫など45名がオチョボッカなどで越冬した。しかし冬季は酷寒で、脚気や栄養失調を患い越冬者24人が病死する結果となった。その後、漁場の経営は厳しく、文久2年(1862年)栖原家に取捌を引き継いだ。漁場の状況については北海道におけるニシン漁史も参照されたい。 幕末の状況について、「北海道歴検図」のカラフトの部分の絵図と松浦武四郎の「北蝦夷山川地理取調図」等によると、東浦ではトンナイチャ(富内村富内)からシララカ(栄浜郡白縫村白浦)までの間、途中3カ所を入れて5カ所の「通行屋」があった。 幕末当時の東浦における漁場は下記のとおり。 ○東浦漁場(東冨藍領、東・南方より順次記載)慶応3年12月 栖原家十代寧幹時代の樺太漁場 富内村・・・アエロウ(アエロフ、愛朗)、トンナイチャ(富内) 落帆村・・・ヲチヨフカ(ヲチョボカ、落帆)
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樺太直捌場所の分立
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安政年間(1854年~1860年)以降、東岸は中知床岬以北のオホーツク海側が幕府直捌となる。安政3年(1856年)鳥井権之助、箱館奉行から北蝦夷地差配人を拝命。安政5年(1858年)、佐藤広右エ門と米屋喜代作が漁場を開設した。漁場の状況については北海道におけるニシン漁史も参照されたい。 東浦漁場(南方より順次記載)安政5年(1858年)当時の割当 佐藤広右エ門・・・松川弁之助の義弟、越後国新潟の人拠点・・・シララオロ(栄浜郡白縫村白浦) 受持ち場所・・・南のシルトロ川(栄浜郡富浜村白浜付近)より北のチカヘルウシナイ(帆寄村近幌)まで 差配人を拝命。栄浜郡の富浜村西部(後の栄浜村西部)と白縫村、元泊郡帆寄村南部にまたがる地域を割当てられ漁場を開いた。 米屋喜代作(慶応二年以降の佐野孫右衛門)拠点・・・マクンコタン(帆寄村馬群潭) 受持ち場所・・・南のノボリホ(帆寄村登帆)より北のウエンコタン(新問郡東知取村北遠古丹)まで 帆寄村と元泊村、新問郡東知取村を割当てられ、漁場を開いたが経営は困難を極めた。文久3年に漁場返納を却下され、さらに3年間経営を継続。 ※いづれも、後に栖原家に取捌を引継がれた。 幕末の状況について、「北海道歴検図」のカラフトの部分の絵図と松浦武四郎の「北蝦夷山川地理取調図」等によると、小休所では、マクンコタン(帆寄村馬群潭)に「小休所」が描かれていることから、大泊国境線の前身に相当する道がフヌフ(元泊村班伸、元泊の北樫保の南)付近まで通じていたようである。
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樺太直捌場所の分立
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安政年間(1854年~1860年)以降、西浦(西海岸)はノタサンより奥地が幕府直捌となる。安政3年(1856年)箱館奉行は鳥井権之助を北蝦夷地差配人に任命。安政4年(1857年)、権之助の義兄松川弁之助が北蝦夷地(樺太)御直場所差配人元締役に任じられ漁場を開設。このとき、西浦のクシュンナイ(久春内郡久春内村)や、ウシュロ(鵜城)などでも予想を上回る豊漁だったという。漁場の状況については北海道におけるニシン漁史も参照されたい。
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樺太直捌場所の分立
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安政年間(1854年~1860年)以降、東岸は中知床岬以北のオホーツク海側が幕府直捌となる。安政3年(1856年)鳥井権之助、箱館奉行から北蝦夷地差配人を拝命。4月、総勢18人の調査隊が栄浜村のナイブツ(内淵)、白縫村のホロナイ(保呂)とマアヌイ(真縫)を探査。さらに真縫からマアヌイ河流域を遡り、西浦のクシュンナイ(久春内郡久春内村)方面に向かった。安政4年(1857年)土方、木挽き、大工、鍛冶、番人、漁夫など総勢45人を白縫村のワアレ(輪荒)やシララヲロ(白浦)などで越冬させたところ、想像以上に寒さが厳しく脚気や栄養失調で越冬者の半数以上の24人が死亡した。多数の者が病死した知らせが同年6月故郷の越後に届き、越後国蒲原郡井栗村の大工職・平次郎の妻よつは、女性一人でワアレに向け旅立ったという。漁場の状況については北海道におけるニシン漁史も参照されたい。郡域内は、南は東冨藍(トンナイ)領、ショウンナイ(宗運)を境に栄浜領、シルトロ(富浜村白浜付近)より北は白濱(白浦)領や輪在領に属した。当時の行政区分については領の項目も参照。 ○東浦漁場(東・南方より順次記載)安政5年(1858年)当時の割当 米屋喜代作(慶応二年以降の佐野孫右衛門)拠点・・・イヌヌシナイ(犬主) 受持ち場所・・・東冨藍(トンナイ)領のうち、南のアンナスシナイ(亜南)より北のノッサン(野寒)まで 福浜村の大部分(後の栄浜村南東部)を割当てられ、イヌヌシナイ(犬主)に漁場を開いたが経営は困難を極めた。文久3年に漁場返納を却下され、さらに3年間経営を継続。 松川弁之助・・・権之助の義兄拠点・・・ロレイ(栄浜村魯礼)に会所(運上屋) 受持ち場所・・・栄浜領のうち、南のショウンナイ(宗運)より北のロレイ(魯礼)まで 北蝦夷地(樺太)御直場所差配人元締役を拝命、福浜村北部(合併後の栄浜村南東部)から栄浜村東部を割当てられ漁場の経営に当った。 10代目・山田文右衛門(清富)拠点・・・シュシュウシナイ(栄浜) 受持ち場所・・・栄浜領のうち、東のサツサツ(察札)より西のシルトロ川(白浜付近)まで。 差配人並を拝命し、内淵川の川口を含む栄浜村と富浜村東部(合併後の栄浜村西部)を割当てられ、私費を投じ数か所の漁場を開いたが、松川らが撤退し元治元年(1864年)の漁を最後に樺太から撤退。 佐藤広右エ門・・・弁之助の義弟で、越後国新潟の人拠点・・・シララオロ(白縫村白浦) 受持ち場所・・・白濱(白浦)領北部と輪在領、南のシルトロ(富浜村白浜付近)より北のチカヘルウシナイ(元泊郡帆寄村近幌)まで 差配人を拝命。富浜村西部(後の栄浜村西部)、白縫村、元泊郡帆寄村南部にまたがる地域を割当てられ漁場を開いた。 ※いづれも、後に栖原家に取捌を引継ぐこととなった。 幕末の状況について、「北海道歴検図」のカラフトの部分の絵図と松浦武四郎の「北蝦夷山川地理取調図」等によると、通行屋・小休所では、トンナイチャ(富内郡富内村富内)からシララカ(白縫村白浦)までの間、栄浜中知床岬線や栄浜以北の大泊国境線の前身にあたる道沿いに、途中3カ所を入れて5カ所の「通行屋」があった。また、その北のマーヌイ白縫村真縫)に「小休所」が描かれていることから、フヌフ(元泊郡元泊村班伸、元泊の北・樫保の南)付近まで道が続いていた模様。 幕末当時の東浦における宗教施設や漁場については下記のとおり。 ○東浦の神社(東・南方より順次記載) 栄浜村・・・露麗・ロレイ(魯礼)弁天社 白縫村・・・ヲハコタン(箱田)鹿島神社・小社(鹿島の神勧請) ○東浦漁場(東・南方より順次記載)慶応3年12月 栖原家十代寧幹時代の樺太漁場 栄浜村・・・シュシュンナイ(栄浜)、ナイブツ(内淵) 富浜村・・・アイ(相浜)
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