樺太直捌場所の分立とは? わかりやすく解説

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樺太直捌場所の分立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 14:20 UTC 版)

久春内郡」の記事における「樺太直捌場所の分立」の解説

安政年間(1854年1860年)以降西浦西海岸)はノタサンより奥地幕府直捌となる。安政3年1856年箱館奉行鳥井之助を北蝦夷地差配人任命同年総勢18人の調査隊は、上陸したマアヌイ(栄浜郡白縫村真縫)からマアヌイ河沿いに西海岸クシュンナイ達し、そこから北上6月27日にライチシカ湖を探査6月30日クシュナイに戻りさらに南下し7月21日シラヌシに到着8月4日宗谷9月8日箱館着(敦賀文書)。安政4年西海岸クシュンナイ、ウシュロなどでも予想上回る豊漁であったという。安政4年1857年)クシユンナイ等で多く土方木挽き大工鍛冶番人漁夫などが越冬した。しかし厳し寒さによる脚気栄養失調越冬者45人中24人が死亡する悲劇となった石狩御直場所 安政5年1858年クシュンナイ周辺箱館奉行石狩役所直捌場所となり、箱館奉行調役荒井金助、並城六郎クシュンナイ派遣幕府の官船「豊平丸」と「若生丸」で人材物資輸送、「石狩御直場所」の標木を建て官舎倉庫なども建設し久春内ナヨロ泊居郡名寄村)に漁場開設その後物資輸送は、幕府の官船「安寧丸」を借り受けた漁場状況については北海道におけるニシン漁史参照されたい。 ※漁場経営は後に栖原家が取捌を引継ぐこととなった幕末状況について、「北海道歴検図」のカラフト部分絵図松浦武四郎の「北蝦夷山川地理取調図」等では、会所(運上屋)・役宅について、之助の義兄松川弁之助西浦クシュンナイ(久春内村)に取締所を建てたクシュンナイにはオランダ式ストーブ4器を配置幕末当時宗教施設漁場については下記のとおり。 ○西浦神社三浜村・・・ライチシカ(来知志)石清水八幡八 ○西浦漁場南方より順次記載慶応3年12月 栖原十代寧幹時代樺太漁場 久春内村・・・クシュナイ(久春内村)、コモシララヲロ(小茂白) 三浜村・・・ルウクシナイ(留久志) ※クシュナイに番屋(漁番屋)が存在した

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樺太直捌場所の分立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 23:26 UTC 版)

富内郡」の記事における「樺太直捌場所の分立」の解説

安政年間(1854年1860年)以降東岸中知床岬以北オホーツク海側幕府直捌となる。安政3年1856年箱館奉行鳥井之助を北蝦夷地差配人任命同年4月総勢18人の調査隊は、宗谷経て樺太東海岸トンナイチャ(富内)、オチョホッカ(富内村落帆)を調査敦賀文書)。安政4年7月大庄屋松川弁之助北蝦夷地(樺太)御直場所差配人元締役となり、割当てられた場所は南のシレトコ岬(長浜郡知床村)から、本拠地ヲチョボカ(落帆村落帆)より北のシマオコタン(落帆村島古丹)までであった。弁之助は、アイヌへの贈り物の古陣羽織なども用意し上野高崎藩越後国蒲原郡一ノ木戸村(現・三条市)の小林之助を北蝦夷地東浦カラフト東海岸)オチョポカ(落帆)に送り会所運上屋)を建て、この年オボチョッカのみでマス1,000石の漁獲上げた。さらにオチョボカやロレイ(栄浜郡栄浜村礼)など東西13か所で漁場開設。このとき、中知床岬周り東浦への航路開拓幕府から賞される。この年土方木挽き大工鍛冶番人漁夫など45名がオチョボッカなどで越冬した。しかし冬季酷寒で、脚気栄養失調患い越冬者24人が病死する結果となったその後漁場経営厳しく文久2年1862年栖原家に取捌を引き継いだ漁場状況については北海道におけるニシン漁史参照されたい。 幕末状況について、「北海道歴検図」のカラフト部分絵図松浦武四郎の「北蝦夷山川地理取調図」等によると、東浦ではトンナイチャ(富内村富内)からシララカ(栄浜郡白縫村白浦)までの間、途中3カ所を入れて5カ所の「通行屋」があった。 幕末当時東浦における漁場下記のとおり。 ○東浦漁場(東冨領、東・南方より順次記載慶応3年12月 栖原十代寧幹時代樺太漁場 富内村・・・アエロウ(アエロフ、愛朗)、トンナイチャ(富内) 落帆・・・ヲチヨフカ(ヲチョボカ、落帆)

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樺太直捌場所の分立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 05:48 UTC 版)

元泊郡」の記事における「樺太直捌場所の分立」の解説

安政年間(1854年1860年)以降東岸中知床岬以北オホーツク海側幕府直捌となる。安政3年1856年鳥井之助、箱館奉行から北蝦夷地差配人拝命安政5年1858年)、佐藤広右エ門と米屋喜代作が漁場開設した漁場状況については北海道におけるニシン漁史参照されたい。 東浦漁場南方より順次記載安政5年1858年当時割当 佐藤広右エ門・・・松川弁之助の義弟越後国新潟の人拠点・・・シララオロ(栄浜郡白縫村白浦) 受持ち場所・・・南のシルトロ川(栄浜郡富浜村白浜付近)より北のチカヘルウシナイ(帆寄村近幌)まで 差配人拝命栄浜郡富浜村西部(後の栄浜村西部)と白縫村元泊郡帆寄村南部にまたがる地域割当てられ漁場開いた米屋喜代作(慶応二年以降佐野孫右衛門)拠点・・・マクンコタン(帆寄村馬群潭) 受持ち場所・・・南のノボリホ(帆寄村登帆)より北のウエンコタン(新問郡東知取村北遠古丹)まで 帆寄村元泊村新問郡東知取割当てられ、漁場開いた経営は困難を極めた文久3年漁場返納却下され、さらに3年経営継続。 ※いづれも、後に栖原家に取捌を引継がれた。 幕末状況について、「北海道歴検図」のカラフト部分絵図松浦武四郎の「北蝦夷山川地理取調図」等によると、小休所では、マクンコタン(帆寄村馬群潭)に「小休所」が描かれていることから、大泊国境線前身相当する道がフヌフ(元泊村班伸、元泊の北保の南)付近まで通じていたようである。

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樺太直捌場所の分立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 05:49 UTC 版)

鵜城郡」の記事における「樺太直捌場所の分立」の解説

安政年間(1854年1860年)以降西浦西海岸)はノタサンより奥地幕府直捌となる。安政3年1856年箱館奉行鳥井之助を北蝦夷地差配人任命安政4年1857年)、之助の義兄松川弁之助北蝦夷地(樺太)御直場所差配人元締役任じられ漁場開設。このとき、西浦クシュンナイ久春内郡久春内村)や、ウシュロ(城)などでも予想上回る豊漁だったという。漁場状況については北海道におけるニシン漁史参照されたい。

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樺太直捌場所の分立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 05:52 UTC 版)

栄浜郡」の記事における「樺太直捌場所の分立」の解説

安政年間(1854年1860年)以降東岸中知床岬以北オホーツク海側幕府直捌となる。安政3年1856年鳥井之助、箱館奉行から北蝦夷地差配人拝命4月総勢18人の調査隊が栄浜村ナイブツ(内淵)、白縫村のホロナイ(保呂)とマアヌイ(真縫)を探査。さらに真縫からマアヌイ河流域を遡り西浦クシュンナイ久春内郡久春内村方面向かった安政4年1857年土方木挽き大工鍛冶番人漁夫など総勢45人を白縫村のワアレ(輪荒)やシララヲロ(白浦)などで越冬させたところ、想像以上寒さ厳しく脚気栄養失調越冬者半数上の24人が死亡した多数の者が病死し知らせ同年6月故郷越後届き越後国蒲原郡井栗村大工職平次郎の妻よつは、女性一人でワアレに向け旅立ったという。漁場状況については北海道におけるニシン漁史参照されたい。郡域内は、南は東冨トンナイ)領、ショウンナイ(宗運)を境に栄浜領、シルトロ(富浜村白浜付近)より北は白濱(白浦)領や輪在領に属した当時行政区分については領の項目も参照。 ○東浦漁場東・南方より順次記載安政5年1858年当時割当 米屋喜代作(慶応二年以降佐野孫右衛門)拠点・・・イヌヌシナイ(主) 受持ち場所・・・東冨トンナイ)領のうち、南のアンナスシナイ(亜南)より北のノッサン(野寒)まで 福浜村大部分(後の栄浜村南東部)を割当てられ、イヌヌシナイ(主)に漁場開いた経営は困難を極めた文久3年漁場返納却下され、さらに3年経営継続松川弁之助・・・之助の義兄拠点・・・ロレイ栄浜村礼)に会所運上屋受持ち場所・・・栄浜領のうち、南のショウンナイ(宗運)より北のロレイ礼)まで 北蝦夷地(樺太)御直場所差配人元締役拝命福浜村北部合併後栄浜村南東部)から栄浜村東部割当てられ漁場経営に当った。 10代目・山田文右衛門清富拠点・・・シュシュウシナイ(栄浜) 受持ち場所・・・栄浜領のうち、東のサツサツ(察)より西のシルトロ川(白浜付近)まで。 差配人並を拝命し、内淵川の川口を含む栄浜村富浜村東部合併後栄浜村西部)を割当てられ、私費投じ数か所の漁場開いたが、松川らが撤退し元治元年1864年)の漁を最後に樺太から撤退佐藤広右エ門・・・弁之助の義弟で、越後国新潟の人拠点・・・シララオロ(白縫村白浦) 受持ち場所・・・白濱(白浦)領北部と輪在領、南のシルトロ(富浜村白浜付近)より北のチカヘルウシナイ(元泊郡帆寄村近幌)まで 差配人拝命富浜村西部(後の栄浜村西部)、白縫村元泊郡帆寄村南部にまたがる地域割当てられ漁場開いた。 ※いづれも、後に栖原家に取捌を引継ぐこととなった幕末状況について、「北海道歴検図」のカラフト部分絵図松浦武四郎の「北蝦夷山川地理取調図」等によると、通行屋小休所では、トンナイチャ(富内郡富内村富内)からシララカ(白縫村白浦)までの間、栄浜中知床岬線栄浜以北大泊国境線前身にあたる道沿いに、途中3カ所を入れて5カ所の「通行屋」があった。また、その北のマーヌイ白縫村真縫)に「小休所」が描かれていることから、フヌフ(元泊郡元泊村班伸、元泊の北・保の南)付近まで道が続いていた模様幕末当時東浦における宗教施設漁場については下記のとおり。 ○東浦神社東・南方より順次記載栄浜村・・・露麗・ロレイ礼)弁天社 白縫村・・・ヲハコタン(箱田)鹿島神社小社鹿島の神勧請) ○東浦漁場東・南方より順次記載慶応3年12月 栖原十代寧幹時代樺太漁場 栄浜村・・・シュシュンナイ(栄浜)、ナイブツ(内淵) 富浜村・・・アイ(相浜)

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