樺太攻略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/19 05:06 UTC 版)
負傷した西久保が後送されたのは仙台予備病院で、入院中の明治38年1月14日皇后の慰問使が来院する。同29日に退院し、歩兵第2連隊補充大隊附を命ぜられる。4月2日に歩兵第50連隊第1大隊長を仰せ付けられ、東京に赴く。大隊長として今度は樺太進出の命を受ける。7月3日に青森港を発ち、同7日樺太のメレヤ村に上陸する。サウェナパチに露営し翌日午前3時半からコルサコフに向う。10日午前6時から北進してホムトフカに至りここで露営す。翌日は午前4時半より出発しフリゲネーに至り、この地を占領する。偵察によってダリネエー北の森林中に敵兵数百を発見、ここで露営し翌12日午前3時40分部隊を展開し、7時40分進撃を開始し敵前100メートルまで迫る。敵の機関砲射撃を受ける中敵陣地を占領する。しかし、この戦闘に於いて西久保は敵弾が咽喉動脈を貫通し即死する。日露戦争の数々の戦功に依り同日付で正六位勲四等旭日小綬章、功四級金鵄勲章を受章し年金500円を賜る。 後年、西久保の功績を称え在樺太の西久保神社・追分神社・女麗神社及び樺太護国神社にて祀られ、また西久保の占領したダリネエーを西久保村と名付けた。西久保村は後に町村制の施行によって豊原村に編入され字軍川と改称される。西久保の地名はその後樺太庁鉄道豊真線の西久保駅として名を残し、豊原が町制を施行すると豊原町西久保として復活する。
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