タイオワン事件
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タイオワン事件(タイオワンじけん)、別名ノイツ事件は、1628年(寛永5年)に長崎代官の末次平蔵とオランダ領台湾行政長官ピーテル・ノイツとの間で起きた紛争。
- ^ Oosterhoff, J.L. Zeelandia, a Dutch colonial city on Formosa (1624–1662). (編集) Ross, Robert; Telkamp, Gerard J. Colonial Cities: Essays on Urbanism in a Colonial Context. Springer. 1985: 51–62. ISBN 978-90-247-2635-6.
- ^ “馬前政権の「中国大陸寄り」指導要領 新政権が廃止/台湾”. フォーカス台湾. (2016年6月1日) 2016年6月3日閲覧。
- ^ a b c 『ツンベルク日本紀行』第十章 日本人の顏貌及性格 山田珠樹訳、駿南社、1927-1931
- 1 タイオワン事件とは
- 2 タイオワン事件の概要
- 3 経緯
- 4 ツンベルクの記述
タイオワン事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 00:33 UTC 版)
詳細は「タイオワン事件」を参照 すでに問題となっていたタイオワンの日本商人との関係は、1628年に緊迫したものとなった。オランダの植民地が設立されるずっと前から台湾で取引をしていた商人らが、オランダが通行料を不公平とみなして払わなかったのだ。ノイツは、日本訪問を妨害した浜田弥兵衛に報復するため船や武器を差し押さえて通行料の支払いを強要したのである。 しかし、日本人は依然として税金を払う素振りを見せず、ついには自らの屋敷で浜田に匕首を突きつけられてノイツが人質とされるに至った。浜田の要求は、船と財産の返還と、日本への安全な帰国であった。これらの要求は台湾評議会(オランダ語: Raad van Formosa)によって承認され、ノイツの息子ローレンスは6人のオランダ人人質の1人として日本に連れ戻された。ローレンスは1631年12月29日に大村で収監中に死去した。日本統治時代の台湾(1895-1945)には、学校の歴史教科書はこの人質事件を"ヌィッチ事件"と呼び、ノイツのことを「日本の貿易権を軽視し、先住民の権利を踏みにじった傲慢な西洋人の典型的ないじめっ子」と表現していた。
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タイオワン事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 17:15 UTC 版)
詳細は「タイオワン事件」を参照 寛永の頃までに日本では朱印船貿易が盛んになっていたが、その交易先のひとつで明国との非公式な貿易を行う際の中継基地的な重要性があったのが高砂(台湾)だった。そこにオランダ東インド会社が進出してこれを占領(1624年)、ゼーランディア城を建てこの地における交易には一律10%の関税をかけはじめた。 寛永4年(1627年)、長崎の貿易商・末次平蔵の朱印船の船の船長だった弥兵衛は、幕府の後援をうけて、オランダ総督ピーテル・ノイツを人質にし、オランダに関税撤回を要求。オランダはこれをのみ、高砂を自由貿易地にすることに成功した。
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