上知要望論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 02:07 UTC 版)
「対馬」および「対馬府中藩」も参照 水野の上知令は大反対を受けて実行されなかったが、みずから上知を要望する例もあった。それが幕末の対馬府中藩による上知要望論である。開国後、戦略上の要地として防衛力強化を求められていた同藩にとって、1859年(安政6年)のイギリス船アクテオン号の強制入泊事件、さらに1861年(文久元年)のロシア船ポサドニック号事件は防備の重要性をあらためて再認識させる出来事であった。ことに後者は、滞留半年余におよび、決定的な影響をおよぼしたが、藩にとってそれに耐えうる財政力に乏しいことが悩みの種でもあった(ロシア軍艦対馬占領事件)。対馬府中藩内部では、対馬の上知、開港および九州本土への移封論がにわかに台頭し、さらに藩の基本方針として正式に決定され、1861年3月、家老の仁位孫一郎を江戸に派遣することも検討されるに至った。同年6月、対馬府中藩は移封の内願書を江戸幕府に提出した。同年9月、幕府はそれに対し現地調査をおこなったが、開港および上知の実効性を否定し、一円上知には及ばないという結論を下している。
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