安藤老中への憎悪
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安政7年(1860年)、大老の井伊直弼が江戸城桜田門外において水戸藩の浪士に暗殺される(桜田門外の変)。直弼暗殺後に幕府の最高実力者となった老中安藤信正は公武合体の実現のため、孝明天皇の妹和宮と14代将軍徳川家茂との婚姻を画策する。訥庵はこの婚姻に強硬に反対し、討幕を企てるようになる。文久元年(1861年)9月5日、門弟の椋木八太郎は訥庵の作成した「政権恢復秘策」を上奏するために京へ向かった。秘策の中で、訥庵は公武合体に否定的な見解を示し、朝廷には攘夷の勅命を出すことを要請している。 同月、訥庵は宇都宮の児島強介を水戸へ赴かせる。外国人を襲撃して幕府を混乱させ、公武合体を頓挫させることを訥庵は意図しており、水戸藩の志士に外国人襲撃の協力を求めるものであった。これに対し、水戸藩の激派からは宇都宮藩の志士と協力して老中安藤信正を暗殺したい旨の回答があった。強介は訥庵に水戸側の回答を伝える。訥庵としては老中暗殺は時期尚早であり、朝廷からの「政権恢復秘策」の回答を得てから判断したいと考えていた。結果として、訥菴の秘策は朝廷に採用されることはなく、10月18日には和宮の降嫁が勅許される。11月6日にはプロシアとの条約交渉を行っていた元外国奉行堀利煕が突然謎の自刃を遂げた事件があったが、これに事寄せて堀の安藤に対するという諫言の書と称する偽書を捏造して尊攘派の間に回覧し、堀が安藤への抗議の自害をしたとの世論を醸成した。
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