安藤組時代
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日本に戻ると、慶應義塾高校に入学。同校では体育会拳闘部の主将となったが、16歳で本格的に暴力団構成員となった上、早稲田大学の学生たち16人に喧嘩を挑まれて3人で叩きのめしたことが問題となり、「はなはだしく塾の名誉を汚した」との理由で1955年春に除籍処分を受けた。 慶應義塾高校除籍後は神戸市立須磨高等学校や逗子開成高等学校など6つの高等学校を転々とし、安藤組組員であった時期に保善高校定時制課程に入学した。この間、18歳の時に横浜市伊勢佐木町へ債権の取り立てに行き、不良外人のブローカーと争い、初めて銃で撃たれる経験をする。 19歳の時には横浜で不良外人の下へ借金の取り立てに行ったところ、用心棒から殺されそうになり、反撃して相手の拳銃と車を奪い逃走。このため強盗殺人未遂と銃刀剣法違反で逮捕され、少年院から大津刑務所に身柄を移される。1審で懲役7年の実刑判決を受けたが、接見に来た今日出海らの勧めで控訴。控訴審の弁護人の働きにより緊急避難が認められ、強盗殺人未遂から窃盗罪・遺失物取得罪・銃刀剣法違反に罪名変更され、懲役2年6月、保護観察付執行猶予5年の有罪判決を受ける。 以後、「幻の鉄」の二つ名を持つ中国道の大親分のもとに身柄を預けられ、親分の一家を守るとともに、親分の娘と恋仲になった。また、若い時期はブラディー・ナオのリングネームで地下ボクシング活動もしており、海外を転戦していた時期もあった。世界王者・サンディ・サドラーの来日時のスパーリングパートナーも務めたといい、ハンブルクでは悪役プロレスラーとしてリングに登場し、力道山から「いつでも安藤組に頼みに行くから、ヤクザ辞めてレスリングやれ」と勧められたこともある。 (安藤組に所属中のエピソードと思われるが)1980年代、作家転向後の青年誌(講談社刊行「ホットドッグ・プレス」)のインタビュー記事内で「フランスに滞在中、射撃の大会に出場したところ22口径の部で優勝し、そのことが「ル・モンド」紙に掲載され、周囲より「日本では拳銃を所持できないのに、なぜお前が優勝できるのだ」という声があがり、「オレはヤクザだ」という趣旨の発言をし、それが原因でフランスから国外退去させられた」というくだりがある。
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