幕末動乱
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文久元年(1861年)に平佐領主・北郷久信とともに長崎出張を命じられ、1月17日に蒸気船「天佑丸」に乗船して前之浜を出立した。長崎では通詞を雇い、オランダ軍艦に乗船して軍艦操作、破裂弾・水雷砲術学などを修学、八木玄悦、石河正龍らとともに研究している。帰鹿した同年6月に石河によって忠義臨席の下、電気伝導で水雷を爆発させる実演が行われ、これらの功績によって同年5月18日、島津久光の側役に抜擢されている。10月に入って大幅な人事異動により久光体制が確立すると、清廉は御改革御内用掛に任命され、藩政改革に取り組んだ。配下に大久保利通がいた。文久2年(1862年)には久光による上洛に随行し、帰国後は家老職に就任した。薩英戦争では、研究した水雷を鹿児島湾に配置するなど尽力する。戦後は集成館を再興して特に蒸気船機械鉄工所の設置に尽力する一方で、京都にあって主に朝廷や江戸幕府、諸藩との連絡・交渉役を務め、参与会議等にも陪席した。他方で御軍役掛や御勝手掛、蒸気船掛、御改革御内用掛、琉球産物方掛、唐物取締掛などを兼務して藩政をリードし、大久保や町田久成とともに洋学校「開成所」を設置した。 禁門の変(1864年)では、幕府の出兵要請に対して消極的な態度を示したが、勅命が下されるや薩摩藩兵を率いて幕府側の勝利に貢献した。戦後、長州藩から奪取した兵糧米を戦災で苦しんだ京都の人々に配った。同年の第一次長州征討では長州藩の謝罪降伏に尽力している。 いったんは戦火を交えた長州藩との関係修復を図り、長州藩による軍艦「ユニオン号」など武器の購入を斡旋した。在京中に土佐藩脱藩浪士の坂本龍馬と昵懇となった。亀山社中(のちの海援隊)設立を援助したり、龍馬の妻・お龍の世話をしたりしている。「ユニオン号」の輸入や運用など実務を担ったのも、龍馬のほか近藤長次郎らの土佐浪人グループである。小松はさらに長州の井上馨と伊藤博文を長崎の薩摩藩邸に匿ってグラバーと引き合わせ、その後、鹿児島へ井上を伴って薩長同盟の交渉を行った。なお薩長同盟における密約や木戸孝允(桂小五郎)が滞在したのも、京都における清廉の屋敷であったと伝えられる。この屋敷は近衛家別邸「御花畑」と通称され、その規模と内容、具体的な所在地が2016年5月の京都と鹿児島での相次ぐ史料の発見によって確定された。
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幕末動乱
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1849年(嘉永2年)、江戸で伊東玄朴の象先堂塾に入門し、塾頭となる。江戸では戸塚静海にも学んでいる。この頃に勤皇運動に傾倒。藩の知るところとなり、急遽佐賀に戻るよう命じられている。1851年(嘉永4年)、長崎に移り、家塾を開く。1853年(嘉永6年)、佐賀に帰り、佐賀藩の精煉方頭人となり、藩主・鍋島直正から「栄寿左衛門」の名を授かる。佐賀藩の精煉方に田中久重親子や石黒寛次らを推薦する。1855年(安政2年)6月に長崎の海軍予備伝習に参加する。同年8月に幕府が長崎海軍伝習所を開設し、佐賀藩から常民ら四十八名が第一期生として参加する。この頃に藩主・鍋島直正へ海軍創設の必要性を説き、自ら海軍所の責任者となる。1857年(安政4年)、佐賀藩がオランダから購入した飛雲丸の船将となり、翌1858年(安政5年)、三重津海軍所の監督となる。1863年(文久3年)、三重津海軍所で幕府注文の蒸気鑵(ボイラー)を製作する。1867年(慶応3年)、パリ万国博覧会に参加し、その万博会場で国際赤十字の組織と活動を見聞し、オランダに行き、日進の建造を発注する。西欧諸国の軍事、産業、造船術などを視察して翌1868年(明治元年)に帰国。
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