幕末以降の豊島屋、そして現代へとは? わかりやすく解説

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幕末以降の豊島屋、そして現代へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/19 14:44 UTC 版)

豊島屋の白酒」の記事における「幕末以降の豊島屋、そして現代へ」の解説

幕藩体制瓦解から明治維新へと時代激動する中で、豊島屋武家への貸付金一般客は現金払いだったが、武家には掛け売り認めていた)などが回収不能となったために倒産危機迎えたこの頃から明治末期まで豊島屋の名は歴史資料から遠ざかるが、1900年明治33年)に発行された『新撰東京名所図会22編』や1911年明治44年)に発行された『東京年中行事』という本に豊島屋鎌倉河岸ではなく美土代町」にあることを示す記述みられる。ただし、口伝によると美土代町への移転1923年大正12年)の関東大震災の後といい、移転時期定かではない豊島屋明治時代後期に灘の酒造り始め自社日本酒金婚」を売り出した。「金婚」という名は豊島屋12代目当主吉村政次郎(1872年<明治5年> - 1959年<昭和34年>)の考案よるもので、明治天皇銀婚式にあやかったものという。 白酒とみりんは大正時代から府中製造行い1932年昭和7年1月1日刊行の「酒類製造者名簿」に府中の項で白酒江戸草分)、みりん(金泉)の記載見られる政次郎は1935年昭和10年4月に灘の府中吉村酒造場(ここで白酒とみりんを製造していた)の合資会社として、豊島屋酒造設立した。さらに政次郎は東村山川島百蔵所有購入して第二次世界大戦の終戦まで清酒醸造小規模ながらも続けていた。 1936年昭和11年)にはそれまで個人名義行っていた小売業廃して株式会社豊島屋本店設立した豊島屋第二次世界大戦前には、白酒販路日本全国広げていた。関東以北樺太までを豊島屋担当し九州方面などを明治屋委託して流通させている。豊島屋では1943年昭和18年)まで白酒造っていたが、第二次世界大戦戦局悪化する軍需工場となり、白酒製造中止された。 1944年昭和19年11月29日B-29による爆撃神田から大手町一帯大きな被害受けた。店だった場所は焼け野原化し焼け跡金庫のみが残っていたという。戦争中には東村山にも爆弾落下したが、幸い不発だったためこちらの焼失免れた美土代町の店は第二次世界大戦終戦後一帯進駐軍モータープールとして接収されたため、猿楽町移転して営業再開した終戦後は、材料の関係で本格的なものが造れないという理由白酒製造中止していた。後に白酒東村山古来からの製法守って石臼挽きでの製造再開している。豊島屋15代目当主吉村孝之は、石臼挽きでの製法守り続け理由としてグラインダー機械的にすりつぶしたものはすぐに沈降してしまうが、石臼挽きのものは沈降速度が非常に遅いために、きめが細かく口当たりのよい白酒できること説明している。 豊島屋の白酒は、1925年大正14年)に献納宮内省願い出て許可受けた以後雛祭り前に皇室への納入を行うようになった毎年2月には、豊島屋当主が自ら白酒秋篠宮家届けている。豊島屋では21世紀至って江戸時代からの伝統守り白酒売り出し時期雛祭り前の一時期のみに限っている。

※この「幕末以降の豊島屋、そして現代へ」の解説は、「豊島屋の白酒」の解説の一部です。
「幕末以降の豊島屋、そして現代へ」を含む「豊島屋の白酒」の記事については、「豊島屋の白酒」の概要を参照ください。

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