幕末以降の豊島屋、そして現代へ
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「豊島屋の白酒」の記事における「幕末以降の豊島屋、そして現代へ」の解説
幕藩体制の瓦解から明治維新へと時代が激動する中で、豊島屋は武家への貸付金(一般客は現金払いだったが、武家には掛け売りを認めていた)などが回収不能となったために倒産の危機を迎えた。この頃から明治末期まで豊島屋の名は歴史資料から遠ざかるが、1900年(明治33年)に発行された『新撰東京名所図会第22編』や1911年(明治44年)に発行された『東京年中行事』という本に豊島屋が鎌倉河岸ではなく「美土代町」にあることを示す記述がみられる。ただし、口伝によると美土代町への移転は1923年(大正12年)の関東大震災の後といい、移転の時期は定かではない。 豊島屋は明治時代後期に灘の蔵で酒造りを始め、自社の日本酒「金婚」を売り出した。「金婚」という名は豊島屋12代目当主、吉村政次郎(1872年<明治5年> - 1959年<昭和34年>)の考案によるもので、明治天皇の銀婚式にあやかったものという。 白酒とみりんは大正時代から府中で製造を行い、1932年(昭和7年)1月1日刊行の「酒類製造者名簿」に府中の項で白酒(江戸の草分)、みりん(金泉)の記載が見られる。政次郎は1935年(昭和10年)4月に灘の蔵と府中の吉村酒造場(ここで白酒とみりんを製造していた)の合資会社として、豊島屋酒造を設立した。さらに政次郎は東村山の川島百蔵所有の蔵を購入して、第二次世界大戦の終戦まで清酒の醸造を小規模ながらも続けていた。 1936年(昭和11年)にはそれまで個人名義で行っていた小売業を廃して、株式会社豊島屋本店を設立した。豊島屋は第二次世界大戦の前には、白酒の販路を日本全国に広げていた。関東以北樺太までを豊島屋が担当し、九州方面などを明治屋に委託して流通させている。豊島屋では1943年(昭和18年)まで白酒を造っていたが、第二次世界大戦の戦局が悪化すると蔵は軍需工場となり、白酒の製造は中止された。 1944年(昭和19年)11月29日、B-29による爆撃で神田から大手町一帯は大きな被害を受けた。店だった場所は焼け野原と化し、焼け跡に金庫のみが残っていたという。戦争中には東村山の蔵にも爆弾が落下したが、幸い不発だったためこちらの焼失は免れた。美土代町の店は第二次世界大戦終戦後に一帯が進駐軍のモータープールとして接収されたため、猿楽町に移転して営業を再開した。 終戦後は、材料の関係で本格的なものが造れないという理由で白酒の製造を中止していた。後に白酒も東村山の蔵で古来からの製法を守って、石臼挽きでの製造を再開している。豊島屋15代目当主の吉村孝之は、石臼挽きでの製法を守り続ける理由としてグラインダーで機械的にすりつぶしたものはすぐに沈降してしまうが、石臼挽きのものは沈降の速度が非常に遅いために、きめが細かく口当たりのよい白酒ができることを説明している。 豊島屋の白酒は、1925年(大正14年)に献納を宮内省に願い出て許可を受けた。以後は雛祭りの前に皇室への納入を行うようになった。毎年2月には、豊島屋の当主が自ら白酒を秋篠宮家に届けている。豊島屋では21世紀に至っても江戸時代からの伝統を守り、白酒の売り出し時期を雛祭り前の一時期のみに限っている。
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