幕末土佐藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 06:42 UTC 版)
天保5年(1834年)、土佐藩に仕える儒者細川延平の次男として生まれる。藩校で優秀な成績を修め、土佐藩の三奇童の一人と謳われた(他の二名は岩崎馬之助(秋溟)、間崎哲馬(滄浪))。 幕末の緊張する内外の情勢に関心を持ち、安政元年(1854年)には長崎に遊学して高島秋帆に入門し、兵学・砲術を学んだ。帰郷後の安政5年(1858年)には、藩命により江戸の海軍操練所でも勉学に励み、航海術を習得した。また、この時期に中浜万次郎の知遇を得て英語も併せて学ぶようになった。 帰藩後、吉田東洋にその才覚を認められて山内容堂の侍読及び藩校教授として洋学を教えた。また、吉田東洋政権の下での藩政改革に関わり、松岡時敏・福岡孝弟らとともに土佐藩の新しい藩法である「海南政典」・「海南律例」の編纂に参加する。
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