幕末動乱期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 09:56 UTC 版)
黒船来航前夜の安永前期。黒船来航を待たずして度重なる飢饉、政策の失敗続きなどにより、武家の衰退が顕著となり、社会の変革の風を人々が意識・無意識に感じ始めた。そんな時代に出羽国から江戸へ上り、鍛刀技術を磨くものが現れた。安永3年に正秀と銘を改めた川部儀八郎藤原正秀、即ち新々刀の祖と呼ばれる水心子正秀の登場である。これより明治維新までの時代を「新々刀」と区分する。特徴としては、製鉄技術の更なる進歩により綺麗な鉄が量産されるようになったため、地鉄が無地に見えることがある。後期には洋鉄精錬技術も取り入れられ、さらに無地風の地鉄が作られた。地鉄の変化と焼入れ技術の低下からか、総じて匂い口が漫然とするものが多い。また逆行するが如く、色鉄を用いたり、無理に肌を出した刀や、古作の写しものが出現する。姿は各国でまちまちであるが、総じて身幅広く、切先伸び、反りのつくものとなる。 新々刀初期に、鎌田魚妙という侍が『新刀弁疑』という著書で、名刀の条件に、沸匂深い作を主張し、大坂新刀の井上真改、津田助廣を褒め称えた。そのため新々刀初期には江戸時代前期の津田助廣が創始した華麗な涛瀾乱れを焼くのが流行した。しかし、本科と比べると、地鉄は無地調で弱く、刃は鎬にかかるほど高く焼き、そして、茫々とした締まりのない匂い出来で、斑沸つく作が多い。実用刀とはほど遠いと感じた正秀は、鎌田魚妙の説に疑問を抱き、実用刀剣の復古、即ち鎌倉時代・南北朝時代の刀剣への復古を唱えた。この復古運動は、後の勤王思想が盛んになりつつある社会情勢と響きあい、各地の鍛冶と交流し(相州伝、備前伝の秘儀を学ぶべく弟子入りした)、同時に大勢の門弟を育てた。卸し鉄など様々な工夫を凝らし目標とする鎌倉・南北朝期の地鉄作製を試みるも、同様のものは実現しなかった。 正秀の弟子は全国各地へ散り、文字通り新々刀期の刀工のうち、正秀の影響を受けていないものは皆無と言って良いほどである。著名な弟子に大慶直胤、細川正義、加藤綱俊がおり、各々正秀と同様、多くの門人を育てた(周防岩国の青龍軒盛俊は加藤綱俊の門下)。 正秀一派が活躍する一方で、信州から源清麿が登場した。はじめは大坂新刀の流れを汲む尾崎一門の河村寿隆に作刀を学び、侍になるべく江戸へ出、幕臣であり軍学者であった窪田清音に才能を見出され、各家伝来の古名刀の写しを作る。源清麿は初銘を「秀寿」と切り・「環」・「正行」・「清麿」と推移する。四谷に住んだため「四谷正宗」の異名を持つ。古作の現物を見て写しを造り腕を磨いたため、正秀一門の写し物とは姿、出来が大いに異なる。特に左文字写し、志津兼氏写しを得意とした。地鉄も他の新々工とは一線を引き、鍛え肌美しく力強い。また、焼き刃は古作の如く、盛んに金筋を交える。しかし、多額の借金(鍛刀の前受け金)を残し42歳で自殺した。弟子に栗原信秀、藤原清人、鈴木正雄がいる。藤原清人と栗原信秀は、師匠が自殺した後、残された約定の鍛刀を引き受け、借金を返したという逸話を残している。 尊王攘夷派の志士の間では、勤皇刀や勤王拵と呼ばれる3尺前後で反りが少ない長寸の打刀が流行し、佐幕派である新選組の隊士も対抗として長大な打刀を欲したことから、需要に合わせ長寸の刀が多く作られた。新選組局長の近藤勇は打刀とほぼ同寸の長脇差を好み、副長の土方歳三も刃長2尺8寸の和泉守兼定や1尺9寸5分の堀川国広を用いていた。幕末期には豪商などが華美な刀装具を作らせる例もあり、土方の和泉守兼定も凝った刀装であったが、多くの志士は薩摩拵のような実用性を重視した拵を好んだ。 水戸勤皇派による天狗党の乱、大老井伊直弼が暗殺された桜田門外の変などがあり、諸国でも佐幕派と尊王攘夷派が入り乱れて闘争が行われるようになる。時代環境に合わせて、江戸初期以降、作刀数の少なかった短刀や長大な打刀の需要増加により作刀が再び繁栄を始めたところで明治維新を迎える。作刀数は多かったものの、実戦よる破損や紛失もあり残存数は多くない。
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