幕末変革期から明治初期における「維新」「一新」の用例
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「明治維新」の記事における「幕末変革期から明治初期における「維新」「一新」の用例」の解説
「維新」の用例は古代以来多数あるが、幕末変革期においては、水戸学の思想家藤田東湖の日記『庚寅日録』天保元年(1831年)4月21日条に「中興維新」、4月25日条に「去年以来国事維新百度将復」とある。また、嘉永3年(1851) 6月19日の藤田東湖宛横井小楠書簡に「近年来尊藩御維新之御政事赫赫と天下に響聞仕」とあり、幕府側の公文書でも、嘉永6年(1853) 10月15日ロシア宰相宛老中奉書「君主新嗣位、百度維新、如斯等重大事項」とある。 長州藩の吉田稔麿は穢多・非人・屠勇などの被差別部落民の兵士取り立てを献策し、元治元年(1864)に「一新組」が、慶応2年(1866)に「維新団」が結成された。 慶応2年(1866年)(または慶応3年)、国学者の玉松操による岩倉具視への返答に「維新」が出てくる。『岩倉公実記』によれば、岩倉具視に意見を求められた玉松操は次のように回答した。 王政復古は務めて度量を宏くし規模を大にせんことを要す。故に官職制度を建定せんには、当に神武帝の肇基に原づき、カン宇の統一を図り、万機の維新に従ふを以て規準と為すべし — 慶応2年(1866年)(または慶応3年)、玉松操発言 玉松においては、徳川政権からの権力の移譲は、「征夷大将軍」という官位を「禁裡様」(天皇)へ返上するという形で行われたもので、これは易姓革命でいう王朝交代ではなかったため、「革命」でなく「維新」の表現が選ばれた。明治政府もこれを踏襲した。 慶応3年12月9日(1868年1月3日)の王政復古の大号令において「民ハ王者之大寶百事御一新」と表記された。尾佐竹猛によれば、明治新政府は王政復古の大号令において根本的大改造という意味で「百事御一新」と宣伝したが、この「御一新」が「維新」という語になり、初めは「王政維新」と言っていたが、やがて「明治維新」という熟語となった。 明治初期の公文書には天下一新・朝政一新という表記がなされた。明治元年2月28日の「幕府御親征の詔」では「天下一新」とある。明治元年3月14日(1868年4月6日)の億兆安撫国威宣揚の御宸翰では「朝政一新」とあり、明治元年12月23日(1869年)の東久世中将からイギリス公使ハリー・パークスに宛てた公文書綴でも「朝政一新」とある。 明治2年正月には、木戸孝允が大村益次郎宛書簡で「大政一新」と書き、岩倉具視は「大政維新」と書いた 明治初期の公文書における「維新」の用例としては、明治3年1月3日の宣布大教の詔に「今や天運循環し、百度維新(これあらた)なり、宜しく治教を明らかにし、以て惟神(かむながら)の道を宣揚すべきなり」とある。 明治5年9月刊行の沖志楼主人『維新御布告往来 : 童蒙必読』には「皇政復古、綱紀御維新(ゴセイジムカシカヘリ ゴキソクアラタニナリ)」とある。
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