幕末変革期から明治初期における「維新」「一新」の用例とは? わかりやすく解説

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幕末変革期から明治初期における「維新」「一新」の用例

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 15:04 UTC 版)

明治維新」の記事における「幕末変革期から明治初期における「維新」「一新」の用例」の解説

維新」の用例古代以来多数あるが、幕末変革期においては水戸学思想家藤田東湖日記庚寅日録天保元年1831年4月21日条に「中興維新」、4月25日条に「去年以来国事維新百度将復」とある。また、嘉永3年(1851) 6月19日藤田東湖横井小楠書簡に「近年来尊藩御維新之御政事赫赫天下に響聞仕」とあり、幕府側の公文書でも、嘉永6年(1853) 10月15日ロシア宰相老中奉書君主新嗣位、百度維新、如斯等重大事項」とある。 長州藩吉田稔麿穢多・非人・屠勇などの被差別部落民兵士取り立て献策し、元治元年(1864)に「一新組」が、慶応2年(1866)に「維新団」が結成された。 慶応2年(1866年)(または慶応3年)、国学者玉松操による岩倉具視への返答に「維新」が出てくる。『岩倉実記によれば岩倉具視意見求められ玉松操次のように回答した王政復古務めて度量を宏くし規模大にせんことを要す故に官職制度を建定せんには、当に神武帝の肇基に原づき、カン宇の統一図り万機維新従ふを以て規準為すべし — 慶応2年(1866年)(または慶応3年)、玉松操発言 玉松においては徳川政権からの権力移譲は、「征夷大将軍」という官位を「禁裡様」(天皇)へ返上するという形で行われたもので、これは易姓革命でいう王朝交代ではなかったため、「革命」でなく「維新」の表現選ばれた。明治政府もこれを踏襲した慶応3年12月9日1868年1月3日)の王政復古の大号令において「民ハ王者大寶百事御一新」と表記された。尾佐竹猛によれば明治新政府王政復古の大号令において根本的改造という意味で「百事御一新」と宣伝したが、この「御一新」が「維新」という語になり、初めは「王政維新と言っていたが、やがて「明治維新」という熟語となった明治初期公文書には天下一新・朝一新という表記なされた明治元年2月28日の「幕府親征の詔」では「天下一新」とある。明治元年3月14日1868年4月6日)の億兆安撫国威宣揚の御宸翰では「朝政一新」とあり、明治元年12月23日(1869年)の東久世中将からイギリス公使ハリー・パークス宛てた公文書綴でも「朝政一新」とある。 明治2年正月には、木戸孝允大村益次郎宛書簡で「大政一新と書き岩倉具視は「大政維新と書いた 明治初期公文書における「維新」の用例としては、明治3年1月3日宣布大教の詔に「今や天運循環し百度維新(これあらた)なり、宜しく治教を明らかにし、以て惟神かむながら)の道を宣揚すべきなり」とある。 明治5年9月刊行の沖志楼主人『維新布告往来 : 童蒙必読』には「皇政復古綱紀維新(ゴセイジムカシカヘリ ゴキソクアラタニナリ)」とある。

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