玉松操とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > デジタル大辞泉 > 玉松操の意味・解説 

たままつ‐みさお〔‐みさを〕【玉松操】

読み方:たままつみさお

[1810〜1872江戸末期から維新期の国学者京都の人。本名山本真弘岩倉具視(いわくらともみ)の側近となり、王政復古計画参画維新後新政府方針合わず職を辞した


たままつみさお 【玉松操】

幕末維新公卿国学者西園寺末流侍従山本公弘の子。名は真弘。初め醍醐無量寿院の僧となり猶海といい大僧都法師進んだが、僧律改革企てが容れられず還俗山本毅軒と名のり、のち玉松操と改名大国隆正らに国学学び岩倉具視腹心として活躍した。(一八一〇~七二)

玉松操

読み方たままつ みさお

幕末・明治勤王家。名は真弘、誠、しけ誠、重信、猶海。野々口隆正門。山本公弘の子岩倉具視扶け施設する多く内国事務判事たり。後官を辞し具視と絶つ明治5年1872)歿、63才。

玉松真弘

(玉松操 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/22 15:41 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

玉松 真弘(たままつ まひろ、文化7年3月17日1810年4月20日) - 明治5年2月15日1872年3月23日))は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての国学者通称(みさお)。雅号は毅軒。

生涯

西園寺家の庶流である山本家侍従・山本公弘の二男として生まれ、醍醐寺無量寿院において出家得度し、法名を猶海とした。大僧都法印に任ぜられたが、寺中の綱紀粛正をつよく唱えたために反感を買い、1839年還俗。山本毅軒と号し、さらに玉松操と改めた。

京都で国学者大国隆正に師事したが、やがて師と対立して泉州に下り、さらに近江国真野に隠棲。三上兵部、樹下茂国らを弟子とした。1867年、三上の紹介によって岩倉具視に会い、その腹心となる。以後、小御所会議の席上示された王政復古の勅を起草し、江戸幕府との交戦に備え官軍の士気を鼓舞するための錦旗の意匠を考案するなど、岩倉の活動を学殖・文才によって助けた。

王政復古の後は、内国事務局権判事となり、平田銕胤らと結んで大学寮(漢学所)を国学を中心とする大学官に併合することを求めるなど、きわめて保守的な立場に立ち、徐々に岩倉らとの距離を深めた。1869年には堂上家の一員となり、家禄30石3人扶持が給付される。東京奠都にあたっては猶予願を出し、1870年東京で大学中博士兼侍読に任ぜられたものの、政府の欧化政策を嫌悪し、同年10月に辞職する。京都に帰って隠棲したが、まもなく病没した。1884年7月、養嗣子玉松真幸男爵に叙された。

司馬遼太郎の短編小説『加茂の水』の主人公として描かれている。



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「玉松操」の関連用語

玉松操のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



玉松操のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
中経出版中経出版
Copyright (C) 2025 Chukei Publishing Company. All Rights Reserved.
株式会社思文閣株式会社思文閣
Copyright(c)2025 SHIBUNKAKU Co., Ltd. ALL RIGHTS RESERVED.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの玉松真弘 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS