王政復古と神仏判然令
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1867年(慶応3年)、王政復古の大号令が発せられた。これは、岩倉具視のブレーンであった国学者の玉松操が起草したもので、「神武創業」の理念が掲げられた。政府はまず、祭政一致・天皇親政を目標として神道を重視し、神祇官を復活させて太政官と並ぶ組織とした。神祇官には、「宣教使」という役職が置かれ、大教宣布の詔に基づき、神道の布教が行われた。また、翌年の3月28日には神仏判然令を発令し、別当や社僧といった形で神社の祭祀に関わってきた僧職に対して還俗して神職となるよう通達し、大菩薩や権現号などの仏教的神号の廃止や、神社内の仏像や仏塔などの仏教的事物を別の寺へ移すことなどを命じた。しかし、排仏思想の強い平田派国学の影響を受けていた明治政府の下級役人や、江戸時代に寺請制のもと支配的な地位にあった寺院に反感を持っていた神職や一部の民衆が、神仏分離の現場において神仏分離令を拡大解釈し、寺院の破壊や仏像の廃棄など過激な廃仏毀釈を行う状況になった。明治政府は、6月22日に「神仏分離は廃仏毀釈に非ざる旨の達」を通達して廃仏毀釈を停止するよう求め、1871年(明治4年)に「古器旧物保存方」を制定し、廃仏毀釈は沈静化に向かったが、短期間ながらも大規模に行われたため、仏教美術の多くが失われてしまうことになった。 また、修験道や陰陽道なども廃止され、1870年(明治3年)に陰陽寮が廃止されたことで、陰陽師は民間の宗教者となり、修験道も1872年(明治5年)に廃止され、修験者は民間の宗教者となるか真言宗か天台宗のどちらかに所属することとなった。 さらに、古代の社格制度を参考に近代社格制度が導入され、各神社の公的な社格付けも行われた。公的な性格を与えられた官社と、それ以外の諸社に大きく分類され、官社は祈年祭、新嘗祭、例祭に際して国庫から幣帛が奉られる官幣社と、国庫からそれが奉られる国幣社に分かれた。さらに、官国幣社ともに大社、中社、小社に区分され、伊勢神宮はこれらの社格の別格上位に位置づけられた。諸社に関しては、府県の住民が敬うべき府社、県社、郷村の住民が敬うべき郷社と村社、いずれにも該当しない無格社に分けられ、それぞれ地方長官の管轄となった。 祭祀制度の整備も進み、1875年(明治8年)に式部寮達「神社祭式」が制定され、はじめて全国の神社の祭式が統一された。この法令により、各神社の祭典における参向者や儀式次第が定められ、開扉、献饌、献幣、祝詞奏上、玉串拝礼、撤幣、撤饌、閉扉に至る次第が確定した。1907年(明治40年)には内務省より「神社祭式行事作法」が発せられてそれぞれの神社祭式の行儀礼法が統一された。さらに、1914年(大正3年)には勅令第9号により「官国幣社以下神社祭祀令」が公布され、神社の祭典が大祭(祈年祭・新嘗祭・例祭・遷座祭・臨時奉幣祭)、中祭(歳旦祭・元始祭・紀元節祭・天長節祭・明治節祭・その他神社に特別の由緒持つ祭祀)、小祭(その他)に区分された。さらにその細則として「官国幣社以下神社祭式」が定められた。なお、皇室祭祀については「皇室祭祀令」及びその附式、神宮祭式については「神宮祭祀令」及び「神宮明治祭式」により定められた。また、天皇の践祚、即位礼、大嘗祭、及び立太子礼については登極令と立儲礼により定められた。
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