紀元節祭
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紀元節が祭日とされていたときには、その当日、宮中の賢所、皇霊殿、神殿では、紀元節祭が行われ、紀元節の祝宴も行われた。また、全国の神社においても、紀元節祭が行われた。 紀元節祭は、初めて紀元節とされた1873年(明治6年)1月29日に、宮中の皇霊殿において行われたのが最初である。このときには皇霊殿においてのみ祭祀が行われ、賢所には便りの御拝が行われただけであった。1914年(大正3年)から、全国の神社でも紀元節祭を行うように定められ、1927年(昭和2年)の皇室祭祀令の一部改正によって、賢所、皇霊殿、神殿の宮中三殿において行われるようになった。 皇室祭祀令が定める大祭のひとつで、天皇が皇族および官僚を率いて親ら祭典を行う。天皇の出御は午前9時30分で、御拝礼御告文を奏して入御。ついで皇后、皇太后の御拝、皇族の御拝がある。参列員は文武高官有爵者優遇者、勅任待遇までの官僚で、正午から午後3時30分まで、有資格者の参拝が許された。当夜は賢所御神楽の儀に準じて皇霊殿に御神楽の奏楽があり、このとき天皇が御拝して、入御ののち神楽に移った。天皇は、神楽が終わるまで就寝しなかった。伊勢神宮、官国幣社以下の神社においては、1914年(大正3年)から、中祭式で祭典が行われた。 1947年(昭和22年)5月2日の皇室祭祀令廃止、1948年(昭和23年)7月20日の休日ニ関スル件廃止を受けて、1949年(昭和24年)以降、紀元節祭という名称の宮中祭祀は行われなくなった。ただし、昭和天皇は同年より2月11日に宮中三殿で臨時御拝(りんじぎょはい)という名目で紀元節祭と同様の祭祀を行い、明仁(第125代天皇)もこれを継承した。橿原神宮へも勅使が派遣され、御神楽奉納は神武天皇祭(4月3日)に併せて行われている。 民間では、一部の有志によって建国祭などと名称を変えて式典が行われている。また、1967年(昭和42年)の建国記念の日制定以降、全国の神社でも再び紀元節祭が行われるようになった。神社本庁などから宮中での紀元節祭復活の要求があるが、宮内庁はこれを拒否している。
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