井伊直弼像とは? わかりやすく解説

掃部山公園

(井伊直弼像 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/18 22:44 UTC 版)

掃部山公園
井伊直弼像とランドマークタワー
分類 近隣公園
所在地
神奈川県横浜市西区紅葉ケ丘57
座標 北緯35度27分11秒 東経139度37分32秒 / 北緯35.4531度 東経139.6256度 / 35.4531; 139.6256座標: 北緯35度27分11秒 東経139度37分32秒 / 北緯35.4531度 東経139.6256度 / 35.4531; 139.6256
面積 24,727 m2
開園 1914年(大正3年)11月7日
運営者 横浜市
設備・遊具 幼児・児童用遊具、井伊直弼像、能楽堂
バリアフリー 身障者対応トイレ
テンプレートを表示
夜桜と井伊直弼像

掃部山公園(かもんやまこうえん)は、神奈川県横浜市西区紅葉ケ丘にある公園。横浜みなとみらい21を見下ろす高台にあり、園内には横浜開港に関わった井伊直弼の銅像が立つ。桜の名所としても有名である。

概要

江戸時代までは海に面した高台で、不動山と呼ばれていた[1]

明治初期、新橋駅 - 横浜駅(現・桜木町駅)間の鉄道開通に携わったエドモンド・モレルなど外国人鉄道技師の官舎が建てられ、開通後も鉄道用地として利用していたことから、鉄道山と呼ばれた[2]

1884年(明治17年)に旧彦根藩士が買い取って井伊家の所有となり、1909年(明治42年)、横浜開港50年記念に井伊直弼の銅像が建立された。除幕式の際、井伊を開国の恩人とした銅像の建立趣意書に反発し、山縣有朋伊藤博文松方正義井上馨は欠席した。以後、直弼の官位である掃部頭(かもんのかみ)から、掃部山と呼ぶようになった。

1914年大正3年)、井伊家より横浜市へ寄付され、掃部山公園として整備された。第二次世界大戦中には政府の金属回収指示によって銅像は取り払われたが、1954年昭和29年)に開国100周年を記念して横浜市が再建している。

園内には約200本の桜が植えられ、1996年平成8年)には公園の一角に横浜能楽堂が建設された。

掃部山公園の花見

井伊直弼像および台座

園内に立っている井伊直弼像は1909年(明治42年)6月26日に竣工した。元々は記念碑を建立する計画が1881年(明治14年)に発起されたが、1903年(明治36年)にいたって銅像建立に変更された。1909年に竣工し同年の7月11日14時半より除幕式が行われた。高さは1丈2尺(3m60cm)で、「正四位上左近衛権中将」の正装をしている[3]。原型作者は工学士の藤田文蔵、鋳造者は岡崎雪聲[4]。台石は工学博士の妻木頼黄の設計で高さ2丈2尺(6m60cm)。

1923年関東大震災では倒壊を免れたものの、振動で南に25度向きを変えた。銅像部分は、1943年(昭和18年)に金属回収によって撤去されたが、戦後の1954年(昭和29年)に再建された[5]。1954年(昭和29年)が横浜開港100周年に当たることから、記念行事の一環として銅像を再興する動きがあり、神奈川県横浜市・商工会、さらに市民の協賛を得て計画が実行に移された。前年の12月、実行委員会は保土ヶ谷区天王町在住の彫刻家慶寺丹長父子[6]に銅像再鋳を依頼した。東京の井伊家菩提寺である豪徳寺井伊直弼の彫刻を基礎として先の銅像の原寸大に拡大し、可能な限り元の彫刻と合致するように苦心した。新しい銅像は、1954年(昭和29年)5月20日に完成し、据え付けられた[7]

1990年以降、横浜みなとみらい21の開発により、井伊直弼像は、ランドマークタワー等の高層ビルを見届けているような位置関係となった。

台座部分は、2012年(平成24年)3月28日に横浜市認定歴史的建造物に認定された[8]

掃部山公園は山の底辺から山頂までを公園としており、昇り降りには運動量を要する。井伊直弼像は山頂付近の広場の一角に据えられており、見学は横浜能楽堂の側から入るのが楽である。

所在地・交通

神奈川県横浜市西区紅葉ケ丘57

周辺

出典

  1. ^ 田村泰治「横浜掃部山公園 井伊直弼銅像建立をめぐる紛争と事件の顛末」『郷土神奈川』第47号、神奈川県立図書館、2009年2月28日、7頁、NAID 40016596396 
  2. ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典』 14(神奈川県)、角川書店、1991年9月、299頁。ISBN 4040011406 
  3. ^ 西区の今昔・編集委員会 編『ものがたり西区の今昔』西区観光協会、1973年7月2日、123頁。全国書誌番号:73007185 
  4. ^ 横浜市 編『横浜復興誌』 第三編、横浜市、1932年3月31日、133頁。全国書誌番号:53016725 
  5. ^ 西区の今昔・編集委員会 編『ものがたり西区の今昔』西区観光協会、1973年7月2日、124頁。全国書誌番号:73007185 
  6. ^ 横浜郷土研究会 編『横浜歴史散歩』横浜郷土研究会〈横浜歴史教室〉、1977年11月(原著1976年7月8日)、71頁。 NCID BA43728980 
  7. ^ 田村泰治「横浜掃部山公園 井伊直弼銅像建立をめぐる紛争と事件の顛末」『郷土神奈川』第47号、神奈川県立図書館、2009年2月28日、12-13頁、NAID 40016596396 
  8. ^ 井伊直弼像台座及び水泉 横浜市都市計画局企画部都市デザイン室

外部リンク


井伊直弼像(台座)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 00:25 UTC 版)

掃部山公園」の記事における「井伊直弼像(台座)」の解説

園内立っている井伊直弼像は1909年明治42年6月26日竣工した。元々は記念碑建立する計画1881年明治14年)に発起されたが、1903年明治36年)にいたって銅像建立変更された。竣工同年7月11日14時半より除幕式が行われた。高さは1丈2尺(3m60cm)で、「正四位上左近衛権中将」の正装をしている。原型作者工学士藤田文蔵鋳造者は岡崎雪聲台石工学博士妻木頼黄設計で高さ2丈2尺(6m60cm)。 1923年関東大震災では倒壊免れたものの、振動で南に25向き変えた銅像部分は、1943年昭和18年)に金属回収によって撤去されたが、戦後1954年昭和29年)に再建された。1954年昭和29年)が横浜開港100周年に当たることから、記念行事一環として銅像再興する動きがあり、神奈川県・横浜市商工会、さらに市民協賛得て計画実行移された。前年12月実行委員会保土ヶ谷区天王町在住彫刻家慶寺丹長父子銅像再鋳を依頼基礎となる模型東京井伊家菩提寺である豪徳寺井伊直弼彫刻先の銅像原寸大拡大して可能な限り元の彫刻合致するものになるように苦心した新し銅像は、1954年昭和29年5月20日完成し据え付けられた。 1990年以降横浜みなとみらい21開発により、井伊直弼像は、ランドマークタワー等の高層ビル見届けているような位置関係となった台座部分は、2012年平成24年3月28日横浜市認定歴史的建造物認定された。 掃部山公園は山の底辺から山頂までを公園としており、昇り降りには運動量要する。井伊直弼像は山頂付近広場一角据えられており、見学横浜能楽堂側から入るのが楽である。

※この「井伊直弼像(台座)」の解説は、「掃部山公園」の解説の一部です。
「井伊直弼像(台座)」を含む「掃部山公園」の記事については、「掃部山公園」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「井伊直弼像」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「井伊直弼像」の関連用語

井伊直弼像のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



井伊直弼像のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの掃部山公園 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの掃部山公園 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS