掃部山公園
(井伊直弼像 から転送)
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| 掃部山公園 | |
|---|---|
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井伊直弼像とランドマークタワー
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| 分類 | 近隣公園 |
| 所在地 |
神奈川県横浜市西区紅葉ケ丘57
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| 座標 | 北緯35度27分11秒 東経139度37分32秒 / 北緯35.4531度 東経139.6256度座標: 北緯35度27分11秒 東経139度37分32秒 / 北緯35.4531度 東経139.6256度 |
| 面積 | 24,727 m2 |
| 開園 | 1914年(大正3年)11月7日 |
| 運営者 | 横浜市 |
| 設備・遊具 | 幼児・児童用遊具、井伊直弼像、能楽堂 |
| バリアフリー | 身障者対応トイレ |
掃部山公園(かもんやまこうえん)は、神奈川県横浜市西区紅葉ケ丘にある公園。横浜みなとみらい21を見下ろす高台にあり、園内には横浜開港に関わった井伊直弼の銅像が立つ。遊具広場のほか横浜能楽堂が所在し[1][2]、花見の名所として知られる[1][2]。毎年夏には「虫の音を聞く会」が行われる[1]。
「掃部山」の名は、井伊直弼の官職名「掃部頭」(かもんのかみ)に由来する[1][3]。像は明治期に旧彦根藩士らにより建立され、第二次世界大戦中の金属回収で撤去後、開国100周年の年に再建された2代目である[1][4]。
歴史
明治初期、エドモンド・モレルら外国人鉄道技師の官舎が置かれ、開通後も鉄道用地として使われたことから「鉄道山」と呼ばれた[1][6]。
1884年(明治17年)に旧彦根藩士が買い取って井伊家の所有となる。1909年(明治42年)には横浜開港50年記念して井伊直弼の銅像が建立され、直弼の官位である掃部頭(かもんのかみ)にちなみ「掃部山」と呼ばれるようになった[1]。
1914年(大正3年)、井伊家から横浜市へ寄付され、掃部山公園として整備された[1][2]。銅像は第二次世界大戦中に政府の金属回収指示によって撤去されたが、1954年(昭和29年)に開国100周年を記念して横浜市が再建した[1]。
園内には約200本の桜が植えられ、桜の名所として知られる。
掃部山公園の花見:
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掃部山公園の桜。みなとみらい21方向を望む。
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掃部山公園の桜
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掃部山公園の桜と井伊直弼像
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掃部山公園で花見を楽しむ市民
井伊直弼像および台座
井伊直弼像は1909年(明治42年)6月26日に竣工。建立運動は1880年前後に旧彦根藩士を中心に始まり[7]、相馬永胤が深く関与した[8][4]。当初は記念碑計画(1881年発起)だったが1903年に銅像建立へ変更された。1909年に竣工し同年の7月11日14時半から除幕式が行われた除幕式では、井伊を「開国の恩人」とする趣意書に反発して山縣有朋、伊藤博文、松方正義、井上馨が欠席した[9][10]。
像高は1丈2尺(3m60cm)で、「正四位上左近衛権中将」の正装をしている[11]。原型は藤田文蔵、鋳造は岡崎雪聲[12]。台石は妻木頼黄の設計で[8][4]、高さ2丈2尺(約6.6m)である。
1923年の関東大震災では倒壊を免れたものの、振動で南へ25度向きを変えた。銅像は1943年に金属回収で撤去されたが、戦後の1954年に再建された[13]。1954年(昭和29年)が開国100周年に当たることから、記念行事の一環として銅像を再興する動きがあり、神奈川県・横浜市・商工会、さらに市民の協賛を得て計画が実行に移された[9]。前年の12月、実行委員会は保土ヶ谷区天王町在住の彫刻家慶寺丹長[14][4]に銅像再鋳を依頼した。東京の井伊家菩提寺である豪徳寺の井伊直弼の彫刻を基礎として先の銅像の原寸大に拡大し、可能な限り元の彫刻と合致するように苦心した。新しい銅像は、1954年(昭和29年)5月20日に完成し、据え付けられた[15]。
掃部山公園が縁で西区と彦根市は長年交流を続けている[16][17]。1958年、横浜開港100年祭の年には彦根市長らが井伊直弼を偲ぶ記念式典を開催した[1][18]。
1990年以降、横浜みなとみらい21の開発により、井伊直弼像は、ランドマークタワー等の高層ビルを見届けているような位置関係となった。
台座は2012年3月28日に横浜市認定歴史的建造物に認定された[19]。
掃部山公園は山の底辺から山頂までを公園としており、昇り降りには運動量を要する。井伊直弼像は山頂付近の広場の一角に据えられており、見学は横浜能楽堂の側から入るのが楽である。
催し
1965年から毎年8月に「西区虫の音を聞く会」が催される[20]。万灯が点灯するなか、野点や尺八の演奏、スズムシの販売などを行う[20][21]。周年など特別な年には交流のある彦根市の鉄砲隊が演舞を披露する[16][17]。
毎年秋に、公園内の横浜能楽堂で「横浜かもんやま能」を公演する。能楽堂が建設されるまでの第1回から13回は「かもんやま薪能」として公園内の屋外で実施された[3][22]。
所在地・交通
神奈川県横浜市西区紅葉ケ丘57
- JR根岸線、横浜市営地下鉄ブルーライン 桜木町駅より徒歩12分。
- 京浜急行 日ノ出町駅より徒歩15分。
周辺
出典
- ^ a b c d e f g h i j k “掃部山公園を知ろう”. 横浜市西区 (2021年10月5日). 2025年10月27日閲覧。
- ^ a b c “掃部山公園(かもんやまこうえん)”. 横浜市西区 (2022年3月11日). 2025年10月27日閲覧。
- ^ a b “第39 回 横浜かもんやま能” (PDF). 横浜市. 2025年10月25日閲覧。
- ^ a b c d “県立歴史博物館「井伊直弼と横浜」展 井伊直弼の銅像 建立当時のいきさつとは”. 神奈川新聞 (2020年3月2日). 2025年10月27日閲覧。
- ^ 田村泰治「横浜掃部山公園 井伊直弼銅像建立をめぐる紛争と事件の顛末」『郷土神奈川』第47号、神奈川県立図書館、2009年2月28日、7頁、NAID 40016596396。
- ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典』 14(神奈川県)、角川書店、1991年9月、299頁。 ISBN 4040011406。
- ^ “(マダニャイ とことこ散歩旅:483)横浜道:10 井伊直弼像:上”. 朝日新聞 (2020年12月3日). 2025年10月27日閲覧。
- ^ a b “掃部山銅像建立110年 井伊直弼と横浜”. 神奈川県立歴史博物館. 2025年10月27日閲覧。
- ^ a b “二代めの肖像と履歴:1954年開国百年の横浜における井伊直弼の銅像”. 滋賀大学経済学部研究年報号 14, p. 53-78, 発行日 2007. 2025年10月27日閲覧。
- ^ “横浜市内の掃部山公園に井伊直弼銅像があるが、その除幕式に、伊藤博文、山県有朋、井上馨などが、招待を受けたにもかかわらず欠席したという。これは事実なのか知りたい。 また、銅像建立に際して、明治政府から妨害があったのであれば、その内容についても併せて知りたい。”. レファレンス協同データベース (2021年5月4日). 2025年10月27日閲覧。
- ^ 西区の今昔・編集委員会 編『ものがたり西区の今昔』西区観光協会、1973年7月2日、123頁。全国書誌番号: 73007185。
- ^ 横浜市 編『横浜復興誌』 第三編、横浜市、1932年3月31日、133頁。全国書誌番号: 53016725。
- ^ 西区の今昔・編集委員会 編『ものがたり西区の今昔』西区観光協会、1973年7月2日、124頁。全国書誌番号: 73007185。
- ^ 横浜郷土研究会 編『横浜歴史散歩』横浜郷土研究会〈横浜歴史教室〉、1977年11月(原著1976年7月8日)、71頁。 NCID BA43728980。
- ^ 田村泰治「横浜掃部山公園 井伊直弼銅像建立をめぐる紛争と事件の顛末」『郷土神奈川』第47号、神奈川県立図書館、2009年2月28日、12-13頁、 NAID 40016596396。
- ^ a b “にしく通信!8月24日 西区制80周年記念連携事業「第58回西区虫の音を聞く会」”. 横浜市西区 (2024年8月24日). 2025年10月25日閲覧。
- ^ a b “ふるさと西区推進委員会 24日に「虫の音を聞く会」 西区制80周年で特別な演出も”. タウンニュース 中区・西区・南区版 (2024年8月15日). 2025年10月25日閲覧。
- ^ “忠震! - 直弼/象山――競争する記念碑――” (PDF). 彦根論叢 第373号 平成20(2008)年6月. 2025年10月27日閲覧。
- ^ 井伊直弼像台座及び水泉 横浜市都市計画局企画部都市デザイン室
- ^ a b “西区虫の音を聞く会”. タウンニュース (2018年8月30日). 2022年5月16日閲覧。
- ^ “西区虫の音を聞く会” (PDF). 横浜市 (1989年8月24日). 2022年5月16日閲覧。
- ^ “にしまろちゃんが「ふるさと西区」をご案内! ~伝統イベント・横浜かもんやま能編~”. KADOKAWA ASCII (2022年7月21日). 2025年10月25日閲覧。
外部リンク
- 掃部山公園 横浜市西区ホームページ
井伊直弼像(台座)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 00:25 UTC 版)
園内に立っている井伊直弼像は1909年(明治42年)6月26日に竣工した。元々は記念碑を建立する計画が1881年(明治14年)に発起されたが、1903年(明治36年)にいたって銅像建立に変更された。竣工と同年の7月11日14時半より除幕式が行われた。高さは1丈2尺(3m60cm)で、「正四位上左近衛権中将」の正装をしている。原型作者は工学士の藤田文蔵、鋳造者は岡崎雪聲。台石は工学博士の妻木頼黄の設計で高さ2丈2尺(6m60cm)。 1923年の関東大震災では倒壊を免れたものの、振動で南に25度向きを変えた。銅像部分は、1943年(昭和18年)に金属回収によって撤去されたが、戦後の1954年(昭和29年)に再建された。1954年(昭和29年)が横浜開港100周年に当たることから、記念行事の一環として銅像を再興する動きがあり、神奈川県・横浜市・商工会、さらに市民の協賛を得て計画が実行に移された。前年の12月、実行委員会は保土ヶ谷区天王町在住の彫刻家慶寺丹長父子に銅像再鋳を依頼、基礎となる模型を東京の井伊家菩提寺である豪徳寺の井伊直弼の彫刻を先の銅像の原寸大に拡大して、可能な限り元の彫刻と合致するものになるように苦心した。新しい銅像は、1954年(昭和29年)5月20日に完成し、据え付けられた。 1990年以降、横浜みなとみらい21の開発により、井伊直弼像は、ランドマークタワー等の高層ビルを見届けているような位置関係となった。 台座部分は、2012年(平成24年)3月28日に横浜市認定歴史的建造物に認定された。 掃部山公園は山の底辺から山頂までを公園としており、昇り降りには運動量を要する。井伊直弼像は山頂付近の広場の一角に据えられており、見学は横浜能楽堂の側から入るのが楽である。
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