兄の家臣としての活動
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伊予河野氏の一族とされる一柳直高の次男として美濃国厚見郡(現在の岐阜県岐阜市)に生まれる。『一柳家記』によれば天正6年(1578年)、当時羽柴秀吉に仕え播磨国2500石の知行を与えられた兄の直末に呼び寄せられ、姫路近辺に90石の知行地を与えられて兄の被官となった。以後、直盛は兄に従って武功をあらわすことになる。天正7年(1579年)に秀吉が因幡を攻めると、一柳兄弟も出陣。16歳の直盛は初陣となる「スクモ塚城」の戦いで武名を挙げ(『朝日日本歴史人物事典』では天正10年(1582年)の備中宿毛塚城攻めとする)、続いて鳥取城攻めでも功績があった。備中高松城攻めにも従軍。 天正11年(1583年)の賤ケ岳の戦いにおいては、4月20日に大垣から強行軍で着陣した秀吉の許に兄とともに馳せ参じた。秀吉は直末にもう一人は誰かと問い、直末が「弟の四郎右衛門と申す者です」と答えると、秀吉は「兄に劣らぬ者である」と大声で褒めたという。この戦いで一柳直盛は「先懸衆」の一人を務め、武名を大きく上げたという。 天正13年(1585年)の紀州征伐の際には千石堀城攻めに加わり、城への一番乗りを果たしたという。その後、四国攻め(四国平定)、佐々成政攻めにも従った。
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