兄イムレへの反乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/26 06:20 UTC 版)
「アンドラーシュ2世 (ハンガリー王)」の記事における「兄イムレへの反乱」の解説
1196年4月23日にベーラ3世が没したとき、ハンガリー王位はアンドラーシュの兄イムレが継承し、アンドラーシュは父が十字軍に備えて貯めていた軍費を相続した。アンドラーシュはイムレからハンガリー王位を奪う企てに遺産を使い、オーストリア公レオポルト6世に支援を求めた。1197年12月、アンドラーシュの軍はMacsek近郊でイムレの軍に勝利を収め、クロアチアとダルマチアの支配権はアンドラーシュの元に移った。 1198年初頭、ローマ教皇インノケンティウス3世は、アンドラーシュにベーラ3世の遺志を継いで十字軍に参加することを促した。しかし、アンドラーシュは十字軍に参加せず、近隣の地域に派兵してザクルミア(英語版)を占領した。アンドラーシュはイムレと対立する高位の聖職者と陰謀を企てるが、計画は直前に露見する。アンドラーシュの有力な支持者であったヴァーチ司教ボレスローは逮捕され、他の支持者も特権を剥奪される。1199年夏にアンドラーシュはRádの戦いでイムレに敗れ、アンドラーシュはオーストリアに亡命した。最終的に教皇インノケンティウス3世の仲裁によってアンドラーシュとイムレは和睦し、クロアチアとダルマチアの支配権はイムレに返還された。 1200年ごろ、アンドラーシュはメラーノの公女ゲルトルードと結婚する。 1203年にアンドラーシュは再び反乱を起こし、ドラーヴァ河畔でイムレの軍と対陣するが、イムレが武装を解いてアンドラーシュの宿営を訪れると、アンドラーシュはただちに降伏した。降伏したアンドラーシュはイムレに逮捕されるが、脱走に成功する。 1204年8月にイムレの幼い息子ラースロー(アンドラーシュの甥)が若王として戴冠されたが、その後にイムレは健康を害する。ハンガリー王位が無事に継承されることを願うイムレは、和解したアンドラーシュに幼いラースローを後見するように命じた。1204年秋にイムレが亡くなった後、アンドラーシュは甥ラースローの摂政としてハンガリーを統治し、イムレがラースローに遺した財産を管理した。しかし、イムレの妻コンスタンサがラースローを連れてオーストリアに亡命したため、アンドラーシュはオーストリアとの戦争の準備を進める。 1205年5月7日にラースローが亡くなり、アンドラーシュがハンガリー王位を継承した。
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