兄・信定との対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 15:27 UTC 版)
義春の主要な事績としては、「三河物語」等によれば、岡崎の松平宗家6代目の家督を義春の次兄の桜井松平信定が長兄の信忠と争い、信忠隠退後もその嫡子清康から8代広忠の代まで係争を続けた間も常に宗家に忠節であったことが伝えられている。そして「三河物語」はさらに岡崎登城の際、道で行き会ったときは主従一同が互いに刀の反りをうたせて反目したほど仲が悪かったと伝える。同物語では、内膳殿(信定)が病死すると前後して義春も亡くなったので、結局は何事も起きなかったとする。(なお、松平信定は天文7年(1538年)11月27日に死去と知られている。)
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