兄の死とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 21:28 UTC 版)
天正18年(1590年)、小田原征伐に参加。3月29日の伊豆国山中城攻めでは直末が戦死し、動揺した一柳勢を直盛がとりまとめて奮戦した。 『寛政譜』によれば、このとき秀吉から尾張国黒田城(現在の愛知県一宮市木曽川町黒田)を与えられ、3万石を知行したといい、『一柳家記』も兄の家督を継いで黒田において秀吉から3万石の領地を与えられたとしている。 ただし、直末に幼少の息子・松千代がいたため、直盛は兄の遺領のうち3万石のみを継ぐことになったとも言い、直盛は所領を預かったのだともいう。このほか、直末の戦死を不愍に思った豊臣秀次から、直盛母に508石余が与えられた。なお、松千代はのちに母の兄である黒田孝高に引き取られるが(その後夭折)、小野藩一柳家文書の『丙午録』によれば、家督相続をめぐって一柳家中に争いが生じたことが背景にあるという。 天正19年(1591年)、従五位下監物に叙せられる。豊臣秀次に属して各地で奉行として検地に携わった記録が残る。文禄元年(1592年)には5000石を加増された(『一柳家記』には秀次から直盛に5000石を加増されたという記述がある)。
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