兄と父の死、生活苦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 04:21 UTC 版)
樋口家の戸主であった長男の泉太郎は、1885年(明治18年)に明治法律学校(明治大学の前身)に入学したが1887年(明治20年)に退学。その後、則義の知人の紹介で大蔵省出納局に勤務していたが、12月27日、肺結核で死去した。一葉は父を後見に相続戸主となる。1889年(明治22年)、警視庁を退職した則義は家屋敷を売った金を注ぎ込み荷車請負業組合設立の事業に参画するが、出資金を騙し取られて失敗し、負債を残して同年7月に死去する。一葉は17歳で樋口家を背負うことになった。 一葉には渋谷三郎という許婚がいたが、則義の死後に婚約は解消される。渋谷は一葉の父・則義と同郷で上京後の則義を支援した真下晩菘の妾腹の孫(政治結社「融貫社」の渋谷仙次郎の子)で、自由民権運動の活動家で自由党員でもあり、当時は東京専門学校(早稲田大学の前身)の法科で学んでいた。高等文官試験をめざしていた渋谷が、則義の死後、学費や生活費の保証を求めたことが母・多喜の怒りをかったと推測されている。その後、渋谷は高等文官試験に合格し、新潟県の裁判所司法官試補などを経て、月俸50円の検事となり、人を通じて一葉と復縁しようとして再び多喜を怒らせている。 樋口家は次男の虎之助を頼ったが、母と虎之助の折り合いが悪く、1890年(明治23年)には一葉が萩の舎の内弟子として中島家に住み込む。しかし歌塾の手伝いだけでなく女中のような勝手仕事までさせられたため5か月で辞める。同年9月には、家賃の安い借家へ移ろうと本郷菊坂(現在の東京都文京区)に引っ越し、母と妹と3人での針仕事や洗い張り、下駄の蝉表(せみおもて。細い籐を編んだもの。夏用の駒下駄の表に張るのに使う)作りなどの賃仕事をするが、それだけでは足りず、方々に借金を繰り返す苦しい生活を強いられる。建物が現存する旧伊勢屋質店に通うこともしばしばであった。
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