兄との抗争と和解
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/06 09:44 UTC 版)
「スティエパン・ヴク・コトロマニッチ」の記事における「兄との抗争と和解」の解説
ボスニアを追われたヴクは、他の外国に支援を求め地位を取り戻そうとした。特にローマ教皇ウルバヌス5世には、ボスニア教会に対する十字軍結成を煽って味方につけようと図った。しかしラヨシュ1世がスティエパン・トヴルトコ1世を強力に支援し保護していたため、ヴクの目論見は実現しなかった。1374年までに、おそらくスティエパン・トヴルトコ1世のブルガリア皇女ドロテアとの結婚を機に、彼とヴクの兄弟は和解した。ヴクはボスニアに戻り、副バンともいえる立場で兄を支え、兄の発行する憲章の証人に名を連ねるなどした。ヴクは1378年以降に死去したと考えられている。
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