兄との闘争
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「フロリス・デ・ズウォルテ」の記事における「兄との闘争」の解説
フロリスは1129年にディルク6世に公然と反旗を翻し、母方の伯父ローマ王ロタール3世(母の異父兄)やユトレヒト司教アンドレアス・ファン・クアイクなど多くの有力者からホラント伯として承認されたが、1131年3月には兄弟で和議が成立し、フロリスはディルク6世の麾下に帰参した。ところがわずか半年後の1131年8月、フロリスは西フリースラント人によって反乱の首魁に擁立され、再びディルク6世と敵対することとなった。この反乱にはケンネメルラントの人々も参加した。1132年8月、ロタール3世の仲介により、フロリスは再びディルク6世と和解した。主を失ったフリースラント人はその後も反抗を続けたが、次第に鎮圧されていった。
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兄との闘争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 06:03 UTC 版)
ヒシャーム(以降ヒシャーム1世)の即位を受け、これを不服とした兄スライマーンはトレドとその近郊のアラブ人やアマジグ人の軍隊を率いてコルドバへ向かうが途中でハエン近郊で敗れ、味方としてコルドバから来た兄弟アブドゥッラーと合流しトレドに籠城してヒシャーム1世に抵抗した。スライマーンはアブドゥッラーにトレドを任せメリダに支持を求めに行ったが拒絶され、戦いに敗れムルシアに逃亡。これを聞いたアブドゥッラーはヒシャーム1世にトレドを開城、マグリブに亡命した。スライマーンはバレンシアに追われ、790年に降伏し、マグリブに亡命した。以後ヒシャーム1世の王子ハカム(後のハカム1世)が即位までトレド代官を務める。
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