兄との対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/03 14:51 UTC 版)
享禄4年(1531年)、父・浦上村宗が大物崩れで戦死後、兄・政宗が幼少にして家督を相続していたが、宗景は天文20年(1551年)の尼子晴久の備前侵攻に際してその対応を巡って、政宗と意見が分かれる。そこで宗景は政宗とは別の権力体を作り上げ、尼子氏の脅威にさらされている国内の国衆と団結。尼子氏に与同した兄と完全に対立し浦上氏は分裂する。 天文23年(1554年)頃、天神山城で旗揚げした宗景は、尼子氏と同盟を組んだ政宗に対抗すべく安芸国の毛利元就と同盟。毛利本隊や毛利氏に従う備中国の三村家親率いる「備中衆」の援軍を得て各地で政宗・尼子の連合軍を撃破し、永禄3年(1560年)頃までには、政宗の勢力を備前東部から駆逐し備前の支配権を握る。 ただ、備中の三村氏同様、あくまでこの時点では毛利氏の庇護下に置かれていて、また内政面でも毛利氏の介入を受けるなど、戦国大名として脱皮したとは言い難い状況に置かれていた。また、美作国に置いて勢力を伸ばす三村氏とは軋轢が生じ始めており、相当弱体化したとはいえ、兄・政宗の勢力も未だ備前に健在で、敵はまだ多かった。
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