さらさら越えとは? わかりやすく解説

さらさら越え―佐々陸奥守成政

作者南条範夫

収載図書おのれ筑前、我敗れたり
出版社文芸春秋
刊行年月1998.11


さらさら越え―佐々陸奥守成政

作者南條範夫

収載図書おのれ筑前、我敗れたり
出版社文藝春秋
刊行年月2002.3
シリーズ名文春文庫


佐々成政

(さらさら越え から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/18 08:52 UTC 版)

佐々 成政(さっさ なりまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名佐々成宗(盛政とも)の子[1]。通称は内蔵助。家紋は棕櫚(シュロ)。馬印は金の三階菅笠。鷹司孝子(本理院・徳川家光正室)の外祖父。


注釈

  1. ^ ただし、家康は成政を見捨てた訳では無く、富山の役の最中に羽柴方についていた信濃国の真田昌幸を攻撃している(第一次上田合戦)のは、秀吉を牽制して成政を救う意図があったとする指摘もある[28][29]
  2. ^ 53説が最も有力視されているが、没年は50歳から73歳説まで諸説あり、そこから逆算した生年になっているので、正確な生年は不詳である。ただし『武家事紀』『武功夜話』には天文11年(1542年)の第一次小豆坂の戦いで戦功を挙げた旨の記述があり、もしもそれが正しければ生年の天文5年(1536年)説・天文8年(1539年)説は考えにくくなる[40]。また、天文年間誕生説は17世紀後期になって初めて出現したのに対し、永正年間説は林羅山が編纂した『豊臣秀吉譜』や加賀藩士関屋政春の覚書を甥の有沢武貞が整理した『政春古兵談』が採用していることに注意すべきとする指摘もある。前者は成政死去時は6歳ではあるものの時代的に大きく離れておらず、後者は成政没後の生まれであるが成政旧臣が多く仕えていた加賀藩の家臣で、成政を直接知る者と面識があった可能性があるからである[41]

出典

  1. ^ 花ヶ前 2002, p. 11, 花ヶ前盛明「佐々成政とその時代」.
  2. ^ 花ヶ前 2002, p. 10, 花ヶ前盛明「佐々成政とその時代」.
  3. ^ 花ヶ前 2002, p. 72, 谷口克広「佐々成政とその時代」.
  4. ^ 花ヶ前 2002, p. 16, 花ヶ前盛明「佐々成政とその時代」.
  5. ^ 花ヶ前 2002, p. 17, 花ヶ前盛明「佐々成政とその時代」.
  6. ^ 花ヶ前 2002, p. 74, 谷口克広「佐々成政とその時代」.
  7. ^ 花ヶ前 2002, p. 18, 花ヶ前盛明「佐々成政とその時代」.
  8. ^ 花ヶ前 2002, p. 20, 花ヶ前盛明「佐々成政とその時代」.
  9. ^ 萩原、2023年、P10・434-436.
  10. ^ 花ヶ前 2002, p. 77, 谷口克広「佐々成政とその時代」.
  11. ^ 『富山県史』通史編Ⅲ 近世上、1980年
  12. ^ 荻原、2023年、P15-16・438.
  13. ^ 花ヶ前 2002, p. 109, 奥村徹也「佐々成政と柴田勝家」.
  14. ^ 荻原、2023年、P440.
  15. ^ 浅野清 編著『佐々成政関係文書』新人物往来社、1994年。 
  16. ^ 花ヶ前 2002, p. 146, 池田こういち「佐々成政の越中支配」.
  17. ^ 木越隆三『織豊期検地と石高の研究』桂書房、2000年。 
  18. ^ 萩原、2023年、P17-19.
  19. ^ 花ヶ前 2002, p. 113, 奥村徹也「佐々成政と柴田勝家」.
  20. ^ 花ヶ前 2002, p. 32, 花ヶ前盛明「佐々成政とその時代」.
  21. ^ a b c d 佐伯哲也「天正十二・三年における佐々成政の動向について―新紹介の村上義長と某宗句の書状を中心として―」『富山史壇』第148号、2005年。 
  22. ^ a b c 鈴木景二「佐々成政の浜松行き道筋試案―有沢永貞『雑録追加』所収文書を手がかりに―」『富山史壇』第154号、2008年。 
  23. ^ 遠藤和子『佐々成政』サイマル出版会、1986年。 
  24. ^ 天正12年6月7日付前田利家宛羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』2、1102号)
  25. ^ 天正12年3月29日付羽柴秀吉宛丹羽長秀書状(『大日本史料』11-6、P416.)
  26. ^ 天正12年7月6日付羽柴秀吉宛羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』2、1132号)
  27. ^ a b 高岡徹「小牧・長久手の戦いと越中―秀吉陣立書と成政の蜂起―」『富山史壇』第183号、2017年。 
  28. ^ 竹井英文「〈越中国切〉をめぐる政治過程」『信濃』66巻12号、2014年/所収:萩原大輔 編著『シリーズ・織豊大名の研究 第十一巻 佐々成政』戎光祥出版、2023年。2023年、P254.
  29. ^ 萩原、2023年、P22.
  30. ^ 村川浩平『日本近世武家政権論』近代文芸社、2000年、28頁。 
  31. ^ 廣瀬誠『越中の文学と風土』桂書房、1998年、353頁。 
  32. ^ 廣瀬誠「佐々成政の佐良佐良越えに関する諸説をめぐって」『富山史壇』56・57号、1973年。 
  33. ^ 米原寛「佐々成政『ザラザラ超え』考」『富山県立山博物館研究紀要』14号、2007年。 
  34. ^ 遠藤和子『佐々成政 史伝』〈学研Ⅿ文庫〉2002年。 
  35. ^ 服部英雄「検証・佐々成政は本当に厳冬期の針ノ木峠を超えたのか(前・後)」『岳人』595・596号、1997年。 
  36. ^ 服部英雄「佐々成政『ザラ超え』の新事実」『歴史読本』685号、1997年。 
  37. ^ 片桐昭彦 著、上越市史編さん委員会 編『上越市史 通史2 中世』2004年、475頁。 
  38. ^ a b c 花ヶ前 2002, p. 164, 森本繁「佐々成政の肥後支配」.
  39. ^ 浅野清「福智院家文書と佐々成政の没年齢」『歴史研究』357号、1991年。 
  40. ^ 谷口克広『織田信長家臣人名事典』(第2版)吉川弘文館、2010年。 
  41. ^ 萩原、2023年、P8-10.
  42. ^ 浅野清『佐々成政関係資料集成』1990年。 
  43. ^ 浅野清「福智院文書と佐々成政辞世歌」『国文学年次別論文 中世』、学術文庫刊行会、1991年。 
  44. ^ 浅野清「佐々成政辞世歌」『名古屋自由学院短大研究紀要』1994年。 
  45. ^ 廣瀬誠「太田道灌と佐々成政―その辞世歌をめぐって―」『富山史壇』105号、1991年。 
  46. ^ 廣瀬誠『越中の文学と風土』桂書房、1998年、201-202頁。 
  47. ^ a b 大山智美「中近世移行期の国衆一揆と領主検地-肥後国衆一揆を素材として」『九州史学』164号、2012年/所収:萩原大輔 編著『シリーズ・織豊大名の研究 第十一巻 佐々成政』戎光祥出版、2023年。2023年、P276-279.
  48. ^ 花ヶ前 2002, p. 264, 佐々成政研究会「佐々成政史跡事典」.
  49. ^ 花ヶ前 2002, pp. 201–202, 川口素生「佐々成政逸話・伝説集」.
  50. ^ 花ヶ前 2002, pp. 115–116, 奥村徹也「佐々成政と柴田勝家」.
  51. ^ 花ヶ前 2002, pp. 213–214, 川口素生「佐々成政逸話・伝説集」.
  52. ^ 花ヶ前 2002, p. 37, 花ヶ前盛明「佐々成政とその時代」.
  53. ^ a b 花ヶ前 2002, p. 38, 花ヶ前盛明「佐々成政とその時代」.
  54. ^ 佐々瑞雄. “平成14年5月号 特別寄稿 佐々成政と肥後国衆一揆 ~中世から近世への歴史的転換点~”. 2014年2月8日閲覧。
  55. ^ a b c d 岩本税、島津義昭、水野公寿、柳田快明『新≪トピックスで読む≫熊本の歴史』弦書房、2007年、100-101頁。ISBN 978-4-902116-85-4 
  56. ^ 遠藤和子 1986
  57. ^ a b 松本寿三郎、板楠和子、工藤敬一、猪飼隆明『熊本県の歴史』(第一版第一刷)山川出版社、1999年、150-153頁。ISBN 4-634-32430-X 
  58. ^ 大山智美「中近世移行期の国衆一揆と領主検地-肥後国衆一揆を素材として」『九州史学』164号、2012年/所収:萩原大輔 編著『シリーズ・織豊大名の研究 第十一巻 佐々成政』戎光祥出版、2023年。2023年、P274-276・279-283.
  59. ^ 花ヶ前 2002, p. 33, 花ヶ前盛明「佐々成政とその時代」.



さらさら越え

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佐々成政」の記事における「さらさら越え」の解説

針ノ木峠は「さらさら越え」と呼ばれ越中信州をつなぐ抜け道であった天正12年1584年)、成政がこの峠を超えて信州から浜松まで行き家康面会したとされる確実なことは不明である。『太閤記』がこれを文学化して伝え地元の『肯搆泉達録』がさらに大幅に脚色したもので、様々な説存在している。 以下の3つのルート可能性があると指摘されている。 ザラ峠針の木峠ルートで、立山連峰超えたとする説。『絵本太閤記』などにも書かれている江戸時代から提示されている説である。 冬季立山超えは困難であるため、飛騨から安房峠超えて信州に出るルート通ったとする説。 越後経由ルートで、越中から日本海沿いを北上して越後糸魚川地域入り、そこから南下する千国街道を通るという説。上杉側でありながら佐々徳川内応している村上義長勢力範囲通過するとともに、義長から種々の援助受けて越後通過したとされている。

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