忠守の緒川支配と退去
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/07 01:50 UTC 版)
天正3年12月(1576年1月)に水野氏の当主であった信元が殺害された後も、その旧領は水野氏が支配していたとされる。また、信元の弟で忠守の兄である忠分は織田信長に従い、天正6年12月(1579年1月)の有岡城の戦いで討死にしている。その後、この水野領は誰が支配したのかは今のところわかっていない。 天正9年1月(1581年)信長は高天神城攻めの援軍を子の信忠に命じているが、この際に大野城主水野佐治や、当時徳川氏に仕えていた刈谷城主水野忠重の他、水野監物(常滑城主の水野守隆)が出陣したとされる。一方でこの時に出陣したのは刈谷衆、緒川衆、大野衆とされる。また、天正13年(1584年)の小牧・長久手の戦いにおいて、徳川家康は緒川先方衆の水野分長(忠分の子)に本領安堵と出兵を命ずる文書を出しており、忠重の緒川領への支配は否定されている。このため、『家忠日記』の記述のように援軍に緒川衆が出陣していたならば、忠重以外の人物が率いたことになる。また、常滑水野氏の水野監物守隆・守信(河内守)父子と忠守の子監物忠元・守信(右馬允)父子が混同されていた経緯もあり、この時出陣した『信長公記』が言うところの水野監物とは忠守のことではないかと考えられ、信元死後は緒川領を支配していたと思われる。 また、緒川を退去した時期については、天正14年11月20日に水野清六の動向が記述されており、この人物を「忠守」と推測され、この時既に緒川の地を去り、家康が居城していた駿府城下に屋敷を構えていたのではないかとしている。こうしたことから、忠守が緒川を退去した時期は天正13年冬以降であり、その理由は忠重の秀吉への臣従に反対したことであるとされる。
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