忠守の子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/07 01:50 UTC 版)
水野吉守 - 金蔵を通称とした。はじめ松平忠吉に仕え、のち徳川義直に仕えて1,000石を与えられる。尾張藩士家。 水野守重 - 多宮を通称とした。のちに旗本となる。 水野忠元 - 監物を通称とした。嫡男であり、下総山川藩初代藩主となる。以後、水野宗家として幕末まで血統を保った。 水野守信 - 松平忠吉に仕え、その死後、尾張藩士となって1,000石を与えられる。妻は河和水野氏。初め戸田姓を名乗り、のち水野に復した。本家(金兵衛)は刃傷事件により絶家となるが、別家として、宗家に仕えた家(三郎右衛門)と、尾張藩士として存続した家(藤兵衛)がある。また藩主徳川義直の命により野間大坊(大御堂寺大坊)住職はこの家系、もしくは守信の妻の実家である河和水野家(惣右衛門もしくは内蔵助)から出すことになっていた。 水野重家 - 旗本となる。この系統は宝暦8年(1758年)に絶えている。 水野元吉 - 寛文4年に750石を与えられ、旗本となっている。
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