大高水野家(大膳家)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 14:39 UTC 版)
1.為善 大膳 養月斎 貞守の弟文明年中より大高城に住し、兄に属す。 1.近守 藤二郎もしくは藤十郎 2.忠守 紀次郎 大膳亮 1.吉守 大膳亮永禄6年三河一向一揆との戦いに参加し、家康より知行3,300石を得る。妻は水野信元の女。 1.正長 大膳大夫もしくは大膳亮信長、家康と仕えて大高に居城。関ヶ原の戦いに参加するも、負傷。傷が癒えずに死す。 2.女(水野善兵衛宗勝の妻) 2.正勝 (忠勝) 藤太郎 長左衛門 天正9年(1581年)3月19日卒、年77大膳忠守の次男。信長に仕える。 1.宗勝 藤太郎 善兵衛 元和2年(1616年)1月29日卒織田信雄に仕えて後、小田原征伐において家康の旗下となり、500石を与えられる。 居城は大高城(名古屋市緑区大高町城山)。しかしこの「大高城」については、愛知県武豊町東大高周辺を城邑域とする富貴城とみなす異説もある(『刈谷市史』)。大高城は、忠守の頃に今川方の山口教継の調略によって落城し、桶狭間の戦いが起こった。その後、大高城主に復帰したかどうかは定かではない。 忠守は忠政の娘を妻としたが、『刈谷市史』ではこれを否定する。『寛永系図・水野-坤』では忠政との姻戚関係を記述していない。『寛政譜』では「正勝」の生母の記述はない。大膳亮忠守とその室(忠政の娘)は共に生没年不明であるが、忠守の子・正勝の生年を寛政譜の記述から逆算すると1505年となり、忠守室の兄・忠政の生年が1493年であるから、正勝が忠政の娘の実子でないことは確かである。江戸時代は吉守と正勝の子孫がそれぞれ旗本となった。
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