大高源吾の詫び証文
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 04:50 UTC 版)
四十七士の一人大高源吾が江戸下向しようとしている道中、国蔵というヤクザ者の馬子がからんできた。 大高はここで騒ぎになるわけにはいかないと思って、じっと我慢する。 調子に乗った国蔵は「詫び証文を書け」と因縁をつけてきたので、大高はおとなしくその証文を書いた。 後日、赤穂浪士の討ち入りがあり、そのなかに大高がいたことを知った国蔵は己を恥じて出家の上、大高を弔ったという。 このエピソードは大高源吾ではなく神崎与五郎のものとして語られる事もある。その場合因縁をつけてくるのは「丑五郎」という男である。 大高の詫び証文と称するものを明治35年1月沼津牛臥の旅館(明治まで三島の本陣をやっていた世古家)で大森金五郎が発見し[信頼性要検証]、現在は箱根旧街道休憩所に展示されている。そこの説明によれば元々は三島宿で大高源吾に起こった出来事として伝わっていたものが時代を経ていつのまにか箱根山中の甘酒茶屋で神崎与五郎に起こった出来事に変わったという。
※この「大高源吾の詫び証文」の解説は、「忠臣蔵」の解説の一部です。
「大高源吾の詫び証文」を含む「忠臣蔵」の記事については、「忠臣蔵」の概要を参照ください。
- 大高源吾の詫び証文のページへのリンク