関白任官と紀伊・四国・越中攻略とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 関白任官と紀伊・四国・越中攻略の意味・解説 

関白任官と紀伊・四国・越中攻略

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 00:49 UTC 版)

豊臣秀吉」の記事における「関白任官と紀伊・四国・越中攻略」の解説

天正12年1584年11月21日従三位権大納言叙任され、これにより公卿となったこの際将軍兼任勧められたがこれを断る。 天正13年1585年3月10日秀吉正二位内大臣叙任された。そして3月21日には紀伊国侵攻し雑賀党各地破っている(千石堀城の戦い)。最終的に藤堂高虎命じて雑賀党首領鈴木重意謀殺させることで紀伊国平定した(紀州征伐)。 四国統一した長宗我部元親に対しても、弟の羽柴秀長総大将黒田孝高軍監として10万大軍四国送り込んでその平定臨んだ毛利輝元小早川隆景ら有力大名動員したこの大規模な討伐軍には元親の抵抗も歯が立たず7月25日降伏。元親は土佐一国のみを安堵されて許された(四国攻め四国平定)。 秀吉はこの四国討伐最中二条昭実近衛信輔との間で朝廷二分して紛糾していた関白職を巡る争い関白相論)に介入し近衛前久猶子となり、7月11日には関白宣下受けた関白辞令宣旨 權大納言藤原朝臣光宣奉勅萬機巨細、宜令內大臣關白天正十三七月十一掃部頭大外記造酒正中原朝臣師廉 奉 — 「足守木下家文書」 右の[表示]をクリックする読み下し文を読むことができます権大納言藤原朝臣光宣(の)る。勅(みことのり)を奉(うけたまわ)るに、万機(ばんき)巨細(こさい)、宜し内大臣をして関白にせしむべし者(といえり)。天正13年7月11日 掃部頭大外記造酒正中原朝臣師廉 奉(うけたまわ)る 関白辞令詔書 詔、以庸質當金鏡、妥政績通三、以愚昧受瑤圖、增德耀於明一、夢不見良弼、誰能諫言內大臣藤原朝臣、名翼翔朝、威霆驚世、固禁闕藩屛忠信無私、居門之棟梁奇才惟異、夫萬機巨細百官惣己、皆先關白、然後奏下、一如舊典、庶歸五風十雨舊日、專聽一天四海寧、布告遐邇、俾知朕意、主者施行天正十三七月十一日 — 「天正六年以來關白詔勅書」 右の[表示]をクリックする読み下し文を読むことができます → 詔(みことのり)して、庸(ひととなり)を質(もち)いて金鏡に当て政績せいせき通三つうさん)に妥(やすん)ず、愚昧(ぐまい)を以て瑤図(ようず)を受け、徳耀(とくよう明一を増す、夢良弼りょうひつ)を見(あらわ)れざれば、誰か能く諫言を納れむ、内大臣藤原朝臣、名は朝(みかど)を翼翔(よくしょう)し、威霆(いてい)世に驚かす、禁闕藩屛固くし、忠信無し門の棟梁に居(すわ)りて、奇才惟(ただ)異にす、夫(そ)れ万機巨細百官を己(みずから)惣(す)べ、皆先んじて関(あずか)り白(もう)す、然る後、奏下すること一(もっぱ)ら旧典如く、庶(もろもろ五風十雨旧日帰す専ら一天四海寧(がいねい)を聴(はか)り、遐邇(かじ)に布(し)き告げて朕の意を知ら俾(し)めよ、主者施行しゅしゃしぎょう)せよ、天正13年7月11日 8月から前年小牧・長久手の戦い機に反旗を翻した越中国佐々成政に対して討伐開始したが(富山の役)、ほとんど戦うことなくして成政は8月25日には剃髪して秀吉に降伏している。織田信雄仲介もあったため、秀吉は成政を許して越中新川郡のみを安堵した。こうして紀伊四国越中秀吉によって平定されたのである。また年末天正地震中部襲った。 閏8月末には、家康真田領に侵攻したが、10月秀吉仲介入り和睦した同年秋、秀吉金山宗洗を奥羽の諸領主間の和睦調査のために派遣した。宗洗はその後天正14年1586年)末から15年春と天正15年1587年)末から16年秋の3回わたって奥羽入り奥羽領主との折衝当たったこの年家臣脇坂安治宛の書状で、追放した者を匿うことのないよう警告として「追放した者を少々隠して信長の時代のように許される思い込んでいると厳しく処罰する」としている。 「奉公構」も参照 天正14年1586年9月9日秀吉正親町天皇から豊臣の姓を賜り12月25日には太政大臣就任し、ここに豊臣政権確立させた。 豊臣秀吉読み源頼朝平清盛らとおなじくとよとみひでよし)が正しいと思われる称号家名)は変更され形跡が無いため羽柴もしくは近衛)のままであったまた、これより前に徳川家康に対して融和策に転じており、同年5月に妹・朝日姫家康正室として嫁がせ、さらに9月には母・大政所人質として家康のもとに送り配下としての上洛家康促した家康もこれに従い上洛して秀吉への臣従誓った。だが、結果的に秀吉家康軍事的に服属させることには失敗して不完全な主従関係止まり家康北条氏婚姻同盟関係継続した家康北条氏秀吉の間では依然として中立立場保持する一方秀吉徳川氏軍事的協力徳川領の軍勢通過許可が無い限り北条氏への軍事攻撃不可能になった。そのため、秀吉東国に対して家康介した惣無事政策依拠せざるを得ず西国平定優先する政策を採ることになった

※この「関白任官と紀伊・四国・越中攻略」の解説は、「豊臣秀吉」の解説の一部です。
「関白任官と紀伊・四国・越中攻略」を含む「豊臣秀吉」の記事については、「豊臣秀吉」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「関白任官と紀伊・四国・越中攻略」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「関白任官と紀伊・四国・越中攻略」の関連用語

関白任官と紀伊・四国・越中攻略のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



関白任官と紀伊・四国・越中攻略のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの豊臣秀吉 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS