関白職をめぐる争いとは? わかりやすく解説

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関白職をめぐる争い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/29 01:16 UTC 版)

藤原信長」の記事における「関白職をめぐる争い」の解説

治暦4年1068年4月道長生前定めておいた方針基づいて、父教通は頼通から関白職を譲られ73歳にして就任した。ただし教通の関白職は本人一代限りとし、教通の跡は頼通の子息が継ぐことになっていた。 関白職を獲得するまでの教通の忍従、特に頼通に対して従順であることは、ほとんど卑屈の域に達するものだった頼通太政大臣昇進したことの祝賀に際して左大臣教通は頼通にひざまづいて礼をしたという。これを聞きつけた異母兄能信が「大臣ともあろう者がひざまづいて礼をするなど聞いたともない」と批判した。これに対し教通は「自分道長から「頼通を父と思えと言われたのだ。父に対す礼儀としてひざまづいて礼をするのは当たり前のことだ。能信道長からそんなことを言われことはないだろう」と、死ぬまで権大納言どまりで関白など望むべくもなかった能信逆に皮肉ったという。ところがいったん関白就任すると、教通はこれを自身の子である信長に譲ることを考え始める。教通は頼通健在でいる間はたびたび関白辞表出したり、兼任していた左大臣辞して頼通嗣子師実に譲ったりして、頼通油断させていたが、実はこれも、自分のあとに師実が左大臣となれば、師実の義兄頼通養子)で内大臣源師房右大臣となり、空いた内大臣には首席大納言信長昇進できるという読みがあってのことだった。いよいよ死期が近づいた頼通から関白を師実に譲るよう求められると、教通は天皇裁可必要だとしてこれを拒んだ裁可求められ後三条天皇も教通の留任支持し頼通は師実の関白就任見届けることなく延久6年1074年2月失意のうちに83歳で死去した内大臣信長には関白になる資格充分にあった。教通が頼通死後すぐに信長関白を譲らなかったのは、姉の上東門院彰子87歳にしてなお健在であり、道長遺言生き証人としてにらみをきかせていたためである。しかし彼女も同年10月死去し、教通から信長への関白継承妨げるものはなくなったかに見えた。 しかし、さらに進んで師実を完全に失脚させるためには、教通に時間不足していた。翌承保2年1075年9月に教通も80歳で死去してしまうのである信長は、教通の死去公表せず時間稼ぎ図ったが、ときの白河天皇は教通の死の翌日にはあっさりと師実に内覧の宣旨下してしまった。信長内大臣だったのに対し師実は左大臣だったので、これはごく自然なことだった。また白河は師実の養女中宮賢子を深く愛していたので、この点でも信長は不利であった10月には信長は公式に教通の死を天皇報告し、教通が管理していた氏長者の印などを師実に引き渡さざるを得なくなった。これを受けて師実は正式に関白となった同年12月信長右近衛大将任じられ、そのお礼言上参内などは行っているが、やがて太政官出仕しなくなった。師実が関白となったことが不満だったのである。教通の死後太政官は、左大臣が師実、右大臣が師房、内大臣信長、その下に権大納言が5名在任するという構成になっていたが、師房が承保4年1077年12月70歳死去するその後任は補充されなかった。出仕していない信長昇進させるわけにはいかず、一方、5名の権大納言のなかから信長頭越し新しく大臣任命することは、信長対す重大な侮辱であり、とてもできることではなかった。 大臣事実上一人かいないという異常な事態は、このあと2年上続く。白河天皇関白師実も、ストライキ続け信長どうすることもできなかったのである。この信長行動背後には、天皇・師実に不満をいだく貴族たちの一定の支持があったものと考えられている。しかし承暦4年1080年8月いたって業を煮やした天皇と師実はついに動くことになった本人意向無視するかたちで信長内大臣から太政大臣昇進させたのである当時太政大臣はすでに摂政関白にその権限吸収されいただけでなく、左大臣以下の大臣のように実務関わるともなくなった完全な名誉職だった。表向き昇進であるが、事実上左遷である。兼任していた右近衛大将も、太政大臣が他の官職兼ねることはありえないことから自動的に解任となり、権大納言源顕房改め任命された。 同時に首席権大納言だった藤原俊家右大臣に、次席権大納言藤原能長内大臣進み停滞していた人事玉突き状に一掃された。このとき、首席権中納言だった藤原祐家権中納言から中納言進んだものの権大納言にはなれず、権中納言としては席次が下の藤原実季藤原師通(師実の息子)が祐家を超えて権大納言になった。祐家はこれを不満として出仕しなくなり、祐家の兄の大納言忠家もまた出仕をやめた。信長親しい関係にあった忠家・祐家のストライキは、ある意味ではこのときの人事対す反発抵抗と言えるが、これに続く信長支持動きはなかった。これを見た天皇・師実はさらに次の手を打ち同年10月、師実に一座の宣旨下して太政大臣信長の上席とした。信長の完全な敗北である。 その後14年間、信長は位人臣極めながらも事実上隠退生活を送り、やがてひっそりと死去した信長の子孫から公卿地位昇ることのできた者は一人も出なかった。 信長養女一人藤原経輔の娘)が、師実の後継者の師通(関白内大臣)の妻となっているが、このとき師通はもとの妻である藤原俊家の娘全子離婚している。師通が若くして亡くなったあと、跡を継いだのは全子産んだ息子忠実であった忠実は、義母である信長養女扶養することを拒み、そのため彼女は「乞食」と揶揄されるほどの経済的困窮陥ったという。

※この「関白職をめぐる争い」の解説は、「藤原信長」の解説の一部です。
「関白職をめぐる争い」を含む「藤原信長」の記事については、「藤原信長」の概要を参照ください。

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