賤ヶ岳の戦い - 加賀国半国加増とは? わかりやすく解説

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賤ヶ岳の戦い - 加賀国半国加増

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 13:46 UTC 版)

前田利家」の記事における「賤ヶ岳の戦い - 加賀国半国加増」の解説

詳細は「賤ヶ岳の戦い」を参照 天正10年1582年6月本能寺の変信長家臣明智光秀により討たれた時、利家は柴田勝家従い上杉景勝軍の籠る越中魚津城攻略中であり、山崎の戦いに加わることができなかった。 信長死亡後まもない6月27日織田家後継人事等を決定する清洲会議において、羽柴秀吉柴田勝家対立すると、利家は勝家与力であったことから(若きころよりの親交地理的な問題ともされる真偽不明そのまま勝家与することになるが、かねてから旧交があった秀吉との関係にも苦しんだ同年11月には勝家の命を受け、金森長近不破勝光とともに山城宝積寺城(現京都府大山崎町にあった秀吉相手一時的な和議交渉行った天正11年1583年4月、利家は賤ヶ岳の戦いにおいて、5,000ほどを率いて柴田軍として布陣したが、戦わないうちに戦線放棄するような動きがあり、これは秀吉勧誘に利家が早くから応じていたからではないか推測される合戦たけなわで突然撤退し羽柴軍の勝利を決定づけた。利家は越前府中城(現福井県武生市)に籠るが、敗北して北ノ庄城逃れる途中柴田勝家立ち寄ってこれまでの労をねぎらい湯漬け所望したという逸話が残る(『賤岳合戦記』)。その後府中城使者として入った堀秀政勧告に従って利家は降伏し北ノ庄城攻め先鋒となった戦後本領安堵されるとともに佐久間盛政旧領加賀国のうち二郡を秀吉から加増され、本拠地能登小丸山城から加賀金沢城移した佐久間盛政一向一揆拠点であった尾山御坊の後に城を築いた際に現地地名にちなん金沢城命名したが、利家は盛政色の排除一向衆との融和、更に自身出身地である「尾張国」にも通じることから、金沢城を「尾山城」と改名した。だが、尾山御坊以前から使われていた金沢地名定着していたために、利家の晩年もしくはその没後に「金沢城」に名称が戻され後世伝えられることになる。

※この「賤ヶ岳の戦い - 加賀国半国加増」の解説は、「前田利家」の解説の一部です。
「賤ヶ岳の戦い - 加賀国半国加増」を含む「前田利家」の記事については、「前田利家」の概要を参照ください。

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