賤ヶ岳の戦い - 加賀国半国加増
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「前田利家」の記事における「賤ヶ岳の戦い - 加賀国半国加増」の解説
詳細は「賤ヶ岳の戦い」を参照 天正10年(1582年)6月の本能寺の変で信長が家臣の明智光秀により討たれた時、利家は柴田勝家に従い、上杉景勝軍の籠る越中魚津城を攻略中であり、山崎の戦いに加わることができなかった。 信長の死亡後まもない6月27日、織田家の後継人事等を決定する清洲会議において、羽柴秀吉と柴田勝家が対立すると、利家は勝家の与力であったことから(若きころよりの親交、地理的な問題ともされるが真偽は不明)そのまま勝家に与することになるが、かねてから旧交があった秀吉との関係にも苦しんだ。 同年11月には勝家の命を受け、金森長近・不破勝光とともに山城宝積寺城(現京都府大山崎町)にあった秀吉を相手に一時的な和議の交渉を行った。 天正11年(1583年)4月、利家は賤ヶ岳の戦いにおいて、5,000ほどを率いて柴田軍として布陣したが、戦わないうちに戦線を放棄するような動きがあり、これは秀吉の勧誘に利家が早くから応じていたからではないかと推測される。合戦のたけなわで突然撤退し、羽柴軍の勝利を決定づけた。利家は越前府中城(現福井県武生市)に籠るが、敗北して北ノ庄城へ逃れる途中の柴田勝家が立ち寄ってこれまでの労をねぎらい、湯漬けを所望したという逸話が残る(『賤岳合戦記』)。その後、府中城に使者として入った堀秀政の勧告に従って利家は降伏し、北ノ庄城攻めの先鋒となった。戦後本領を安堵されるとともに佐久間盛政の旧領・加賀国のうち二郡を秀吉から加増され、本拠地を能登の小丸山城から加賀の金沢城に移した。 佐久間盛政は一向一揆の拠点であった尾山御坊の後に城を築いた際に現地の地名にちなんで金沢城と命名したが、利家は盛政色の排除と一向衆との融和、更に自身の出身地である「尾張国」にも通じることから、金沢城を「尾山城」と改名した。だが、尾山御坊以前から使われていた金沢の地名が定着していたために、利家の晩年もしくはその没後に「金沢城」に名称が戻され、後世に伝えられることになる。
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