賤ヶ岳の戦いと出家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 04:44 UTC 版)
清洲会議後、信長の嫡孫・三法師が織田氏の後継者となったが、その中で一益が伊勢に帰還した。関東を失ったために立場が弱くなった一益は今後の汚名返上のために織田家の遺領の再配分を求めたが、羽柴秀吉ら清洲会議に参加した重臣は会議の決定を覆しかねないこの要求を拒んだ。その後、信長の三男・織田信孝は会議の決定に不満を持っていた為、三法師を擁立した羽柴秀吉と、信孝を後援する柴田勝家の対立に発展した。天正11年(1583年)正月元旦、一益は勝家に与して秀吉との戦端を開いた。一益は北伊勢の諸城を攻略、攻め寄せた秀吉方の大軍7万近くを相手に3月まで粘り、柴田勝家の南進後も織田信雄と蒲生氏郷の兵2万近くの兵を長島城に釘付けにしたが、勝家が賤ヶ岳の戦いで敗れ、4月23日に北ノ庄において自害し、4月29日には信孝も自害し孤立してしまう。残った一益は更に長島城で籠城し孤軍奮闘したが、7月には降伏。これにより一益は所領を全て没収され、京都妙心寺で剃髪、朝山日乗の絵を秀吉に進上し、丹羽長秀を頼り越前にて蟄居した。その後、伊勢の所領は信長の次男・織田信雄のものとなった。
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