鷹取氏
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勝田郡鷹取荘に住した支族。勝北郡餘野村を根拠地とする。鷹取氏はしばしば誤って高取氏と書かれた。 菅家一党であることは確かだが、鷹取氏が江戸時代森氏に提出した書状では元来朝廷より出て、大和国に一城を構えたものの、落居して作州に来たといい、また一説に佐伯有頼の後というが、定かではない。 太平記に見える四条猪熊合戦から戦国時代の終焉まで菅家党として活動したが、宇喜多氏の侵攻により原田氏とともに傘下に入り、当時降伏した兵に道案内と先鋒を命じる習いがあったとはいえ、宗家有元氏に弓を引くこととなった(『三星軍傳記』 巻五 有元ヶ居城夜討、菅家亡落の条)。 美作菅家鷹取氏から派生し、備前で浦上家重臣となった鷹取氏がいる。遅くとも16世紀初頭には伊部村周辺に基盤を確立しており、そこを本拠に飯井村(長船町飯井)高松城・香登城主などを務めた。 戦国時代、鷹取備中守は浦上宗景麾下で3000石を領し、領地に備前焼で有名な伊部を抱え、有力窯元大饗氏などを配下に組み入れ羽柴秀吉に贈り物をしていた。その弟彌四郎は宗景の娘を妻として聟入りし、子成宗をなすなど、備前浦上氏の中枢にいた。また戸川秀安に妹を嫁がせて舅であった上、宇喜多秀家の母と内縁であるなど宇喜多氏との関係を多分に持っていた。 永禄12年(1569年)、直家最初の浦上家より離反の際は直家に付いたものの、天正2年(1574年)、二度目の離反の際は宗景方に付き、香登城周辺で戦闘を行うものの追い落とされてしまう。しかし、宇喜多家中との縁戚関係や姫路に拠点を持っていた秀吉との関係から、2代目備中守は先代同様3000石の知行安堵を受け宇喜多氏に仕え、浮田喜八と名乗りを変える。喜八はお家騒動で戸川氏らが退出した後も、秀家母大方殿との関係から宇喜多家に残った。 関ヶ原の戦いで宇喜多氏が滅亡した後、縁戚関係から喜八の子長左衛門は伯母聟である戸川達安に300石で仕えたものの、預かった達安の子の養育を巡って不興を買い、子五郎右衛門は浪人となって果てた。しかし、馬場家の養子に入った兄弟の勘右衛門が十村肝煎役となり、その子孫一郎は門田村に田地屋敷を与えられ御徒格として武士に復帰。孫の孫兵衛は岡山藩家老の伊木忠興に仕えて姓を鷹取に戻した。
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