『東作誌』説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 07:44 UTC 版)
近江に藤原支族の近藤氏がおり、近藤景頼の子宇合頼資が保元の乱(平治の乱との伝もあり)で新院側に与して作州豊田庄に配流、二階堂維行の娘である妻ともども住して近藤村(是宗村)と称した。夫妻には長男・公資、二男・公継の2人の子があった。頼資が死したため、この2子を連れて有元(当時菅原)家に嫁ぐ(『東作誌』是宗村)。 知頼から4代後の仲頼と二階堂維行の娘との間に三穂太郎満祐が生まれ、ここから菅家七流と呼ばれる有元氏・廣戸氏・福光氏・植月氏・原田氏・鷹取氏・江見氏らが派生。有元氏が頭首となって美作菅家党と呼ばれる武士団となった。(『東作誌』 有元家略系図) さらに数代を経て、皆木氏、垪和氏、菅納氏などが派生している。
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